戦争によって戦争孤児が頻出しました。スカウトやプロダクションはいま戦争孤児と同じ状況をつくりだしています。香西咲さんも犠牲者です。国賊の断罪がもとめられます

本日も、戦争についてふれます。
長崎県に池田道明さんというかたがいらっしゃいます。
現在、78歳です。
小学校1年生のときでした。
1945年8月9日の午前11時2分、原爆が炸裂しました。
爆心地は、700メートル先です。
池田さんは、母が勤務している病院のなかにいました。
堅牢な建物であったため、難をまぬがれました。
このとき一緒に遊んでいたのが、同学年のシゲちゃんです。
仲良しでした。
翌日、池田さんは、母に連れられて親戚の家へ避難します。
シゲちゃんは病院に残りました。
母親は病気です。
入院しています。
祖母も付き添いをしています。
しばらくして、池田さんは、シゲちゃんの母親と祖母が、被爆の数日後に亡くなったと知ります。
シゲちゃんの行方もわからなくなりました。
「シゲちゃんに会いたい」
池田さんはずっと、そう思いつづけてきました。
ぼくはこのことを今年の8月3日に配信された西日本新聞の記事で知りました。
嘆息しました。
ネットで池田さんのことを調べてみることにしました。

(2017年7月8日 毎日新聞「核兵器禁止条約 採択 72年、やっとここまで 被爆者『日本も加盟を』」より引用。改行を施しています。)

<一部分を引用>
毎日新聞
長崎県長与町の池田道明さん(78)は今年4月、長崎市で開催された国際会議で、条約の交渉会議で議論を主導したホワイト議長(コスタリカ)らを前に被爆体験を語った。
6歳の時、爆心地から約700メートルの長崎医科大付属病院で被爆した池田さんは定年後、体験を語り始めた
飛び散ったガラスを全身に浴び血だらけになった看護師、目玉の飛び出した人、膨れあがった遺体……。
逃げる途中見た光景や核兵器廃絶の思いを語る講話は約350回を数える。

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池田さんは、現在、「語り部」として活動されています。

(早稲田大学ニュース「ICCトーク・セッション」より引用。改行を施しています。)

<一部分を引用>
早稲田大学
講話者

池田道明
いけだ みちあき
(公財)長崎平和推進協会 継承部会員
被爆当時6歳、山里国民学校1年生。
爆心地から700mの地点で被爆する。
現在は「平和案内人」として、長崎原爆資料館や周辺の被爆遺構等の案内に取り組んでいる。

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いまから12年前のことです。
長崎新聞が、池田さんとシゲちゃんに関する話題を掲載しました。

(2005年2月28日 長崎新聞「原爆孤児の「シゲちゃん」手掛かり求める 長与の池田さん 」より引用。改行を施しています。)

<一部分を引用>
長崎新聞
西彼長与町三根郷の被爆者、池田道明さん(66)は原爆孤児となった幼なじみの「シゲちゃん」を捜している。
長崎に原爆が投下される直前、シゲちゃんの一言で難を免れた池田さんにとって「命の恩人」。
被爆六十周年に合わせ、国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館と長崎新聞社などが募集している被爆体験記に応募し、手掛かりを求めている。

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それから1年後、長崎新聞に池田道明さんの文章が載りました。

(2006年4月13日 長崎新聞「忘られぬあの日 私の被爆ノート 第477回」より引用。改行を施しています。)

<一部分を引用>
長崎新聞
燃え続ける街に黒い雨

山里国民学校に在籍し、浜口町に母と二人で暮らしていた。
夏休みで、母が勤めていた坂本町の長崎医科大付属病院に寝泊まりしていた。
九日は朝の空襲警報が解除された後、同い年六歳の男の子「しげちゃん」と病院の屋上へ遊びに行った。
しげちゃんが
「(一階の)トイレに行きたいから、一緒に降りよう」
と言ったので、エレベーターに乗った。
一階に着き、廊下に飛び出そうとした瞬間、ピカッと大きな火花のような閃光(せんこう)が走り、気絶した。
パチパチと何かが燃える音と煙のにおいで意識を取り戻した。
爆風で廊下の板がはがれ、私は床下の地面に転がっていたが、無傷だった。

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池田さんは、シゲちゃんに命をすくわれました。

(2005年2月28日 長崎新聞「原爆孤児の「シゲちゃん」手掛かり求める 長与の池田さん 」より引用。改行を施しています。)

<一部分を引用>
長崎新聞
池田さんは、
「トイレに行く」
と言うシゲちゃんに付いて建物内に入り、助かった。
(中略。)
池田さんは
「シゲちゃんは朝日国民学校一年だったが、正確な名前は記憶していない。孤児になって苦労しただろう。生きているなら会いたい」
と話している。

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池田さんは、動画のなかで、被爆時の状況を語っています。

国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館 動画「証言映像」(池田道明さん) 
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池田さんは、シゲちゃんを探します。

2005年 長崎新聞

(2005年2月28日 長崎新聞「原爆孤児の「シゲちゃん」手掛かり求める 長与の池田さん 」より引用。改行を施しています。)

<一部分を引用>
長崎新聞
その後、久留米から同病院に来た救護隊の看護師に引き取られたと聞いたが消息は分からないまま。

長崎原爆戦災誌にも、長崎入りした久留米陸軍病院の看護師が旧長崎医科大付属病院付近で親兄弟を亡くした六、七歳の男の子を久留米に連れ帰り、看護師の兄弟で子どものいない家に引き取られたという記述が残されている。
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このあたりの状況につきましては、西日本新聞がくわしいです。

2017年 西日本新聞

(2017年8月3日 西日本新聞「シゲちゃん 長崎原爆72年(2)「原爆孤児」を追って」より引用。改行を施しています。)

西日本新聞
長崎大原爆後障害医療研究所(長崎市)の保管庫に「原子爆弾統計表」というぼろぼろの帳面が残っている。
長崎医大付属病院で被爆した患者や付添人の生死の記録。

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池田さんは「原子爆弾統計表」を見て、シゲちゃんの母親は横田フサ子さんである、と考えます。

長崎新聞
「横田シゲ-」。
フルネームは何だろう。

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池田さんは、小学校(国民学校)の学籍簿を調べることにしました。
シゲちゃんが入学したのは、池田さんと同じく、終戦の年の1945年です。
残念ながら、この年のものは現存していませんでした。
戦争でうしなわれてしまったのです。
池田さんはあきらめませんでした。

ある日のことです。
池田さんは、「長崎原爆戦災誌」を見ていました。
同誌は、長崎市が編纂したものです。
資料と、証言で構成されています。

(NHK長崎放送局「長崎原爆ノート90『長崎原爆戦災誌』」より引用。改行を施しています。)

NHK長崎放送局
「長崎原爆戦災誌」は、街を一瞬にして破壊し、多くの人の命を奪った原子爆弾の恐ろしさをさまざまな角度から記録することで、二度と原爆による惨禍を起こさないようにしようと長崎市がまとめました。
(中略。)
編さん事業は、原爆が投下されてから30年近くたった昭和48年(1973年)に始まり、多くの資料や証言を集めながら、およそ12年の歳月をかけて昭和60年(1985年)3月に完成しました。

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その後、さらに改訂がおこなわれました。

(2004年7月27日 長崎新聞「59年目の検証 原爆戦災誌改訂へ」より引用。改行を施しています。)

<一部分を引用>
「被爆60周年(2005年)に向けた今回の改訂事業は、全5巻のうちの第1巻「総説編」が対象。
2年間で、企業や学校名、文章の見直しを進める。
刊行後に分かった歴史的事実や証言もある。
「今なら、被爆の実相をより克明に記録することができるはずだ」

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池田さんが手にした「長崎原爆戦災誌」に、つぎの記述がありました。

(2017年8月3日 西日本新聞「シゲちゃん 長崎原爆72年(2)「原爆孤児」を追って」より引用。改行を施しています。)

西日本新聞
福岡県久留米市から来た救護隊が孤児を保護して連れ帰り「看護婦寮でしばらく養育した」。
保護場所は長崎医大付属病院で「五、六歳の男の子」と記しているのだ。

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救護隊は、久留米陸軍病院(現在の久留米大学医療センター)から派遣されたひとたちです。
長崎医大付属病院で、5、6歳の男の子を保護しました。

西日本新聞
「長崎原爆戦災誌」(1985年刊行)によると、福岡県久留米市の陸軍病院で養育された「五、六歳の男の子」は「看護婦の兄弟で子どものいない家に引き取られて行った」とされるが、その後のことは分からなかった。
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西日本新聞の記者は、久留米へ向かいます。

(2009年9月 久留米大学医療センター「医療センター開設15周年を迎えて」より、引用。)

<一部分を引用>
久留米大学医療センターは、厚生省(現厚生労働省)より旧国立久留米病院の移譲を受け、1994年(平成6年)7月1日に開院しました。
(中略。)
国立病院の前身は、1897年までさかのぼり、歩兵第48連隊医務室内に開設された三等衛戌(えいじゅ)病院に始まります。
その後、変遷して1935年に久留米陸軍病院、1945年には国立久留米病院に移行しました。

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記者は、当時久留米陸軍病院に勤務していた女性と対面します。

西日本新聞
「確かにおったですよ。小さな男の子」

シゲちゃんとみられる孤児を含む3人を、救護隊が久留米市に連れ帰ったと証言した。
孤児たちは、しばらく病院内で暮らしていたが
「その後は、分からんねぇ」

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ここで手がかりが途絶えました。

西日本新聞
次の有力情報は、6歳で別れた「命の恩人」を捜す池田道明さん(78)が、かつて耳にした
「年の頃が合うシゲちゃんが久留米の飲食店で働いていた
という、雲をつかむような話を確かめる過程でもたらされた。

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このあと記者は、シゲちゃんがどのような人生をあゆんだのかを知ります。

(下図は「ゆっちの気の向くままに喰い飲み道楽」より、引用。)
沖食堂(福岡県久留米市篠山町)

結末につきましては、西日本新聞の記事をご覧ください。

(2017年8月3日 西日本新聞)

シゲちゃん 長崎原爆72年(3)「被爆」一度だけ告白

シゲちゃん 長崎原爆72年(4)「花と竜」に人生重ね」

記事は、最後、つぎのことばで締めくくられています。
原爆により親を亡くした原爆孤児は、広島で2千人とも6500人ともいわれる。長崎ではその数も、実態も詳しく分かっていない。シゲちゃんもその一人だ
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戦争がおわってから72年が経ちました。
いま、「戦争孤児」ということばは、死語となりました。

(2015年11月8日 弁護士ドットコム「現役女優から『死にたい』というメールが届く――AV出演強要の実態<下>より、引用。)

<一部分を引用>
金尻カズナ PAPS相談員
また、ある相談者は
「あれはカルト宗教だった」
と回想していました。
たしかにカルト宗教に近い問題があります。
それは、甘い言葉で勧誘し、まるで家族のように親しく接近し、居住の自由を奪う。
家族や社会から孤立させる
「相談役」もいる。
断ったり指示に従わなければ
「違約金を支払え」
と恐怖をあおる。
そうやって、女性たちに考えないようにさせ、抜け出せないようにさせています。

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スカウトやプロダクションのやつらは、「戦争孤児」の方々と同じ状況をつくりだしています。
香西咲さんも同様の手口で家族から引き離されました。

青木亮
大西敬
高畠典子
坂田恵理子
坂上孝志
A-TEAM 飯田正和
メーカー関係者
T総研のY

こいつらは、国賊です。
早期の断罪がもとめられます。
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2016年07月07日 香西咲さんの特集記事(1)が週刊文春に掲載されました。
2016年07月14日 香西咲さんの特集記事(2)が週刊文春に掲載されました。
2016年07月17日 香西咲さんがAbemaTV(みのもんたの「よるバズ!」)に出演されました。
2016年07月20日 香西咲さんのインタビュー記事が、しらべぇに掲載されました。
2016年07月27日 香西咲さんのインタビュー動画が、毎日新聞のWebサイトにアップされました。
2016年07月29日 香西咲さんのインタビュー記事と動画が、毎日新聞のWebサイトに掲載されました。
(引用。A氏による衝撃の回答)
問「出演強要が社会問題化している。事務所の運営や女優との契約について見直しは?」
A氏「当然やっていく。今、弁護士と話して、きちんとしていこうとしている

 (A氏は、これまできちんとしていなかったことを認めました。)
2016年08月27日 香西咲さんのインタビュー記事が、弁護士ドットコム(前編)(後編)に掲載されました。
2016年09月17日 香西咲さんがAbemaTV(みのもんたの「よるバズ!」【1】【2】【3】)に出演されました。
2016年09月24日 香西咲さんのインタビュー記事(1)が、withnewsに掲載されました。
2016年10月01日 香西咲さんのインタビュー記事(2)が、withnewsに掲載されました。
2016年10月17日 香西咲さんのインタビュー記事(日本語訳)が、AFP通信のサイトに掲載されました。
2016年12月28日 香西咲さんのインタビュー記事が、週刊文春に掲載されました。
香西咲さんのツイッター
(香西咲さんの重要ツイート ~2016年7月18日)
 私だって綺麗にリセット出来るならAVデビュー前の私に戻りたい。
 だけど変えられない現状踏まえて立て直したのが今の形。(後略。)

(明日のブログへつづく)



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