香西咲さんはいま出演強要問題を風化させないために各種メディアで自身の体験を語っています

昨日のつづきです。
冒頭に、訂正をさせていただきます。
一昨日のブログで、ぼくは、つぎのように書きました。

<2016年9月26日のブログ>
アメリカ軍のヘリコプターがやってきました。
住宅と樹木が激しく燃えています。
地面に、くずおれている(くずれるように倒れている)ひともいます。
アメリカ兵は何事もなかったようにしてすすみます。
目をくれようともしません。
パラシュートを解いた二人と会話をかわします。
全員でヘリコプターに乗りこむと、すぐに飛びたっていきました。
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このなかに、誤りが2つありました。
最初に事故現場にやってきたのは、アメリカ軍でなく、自衛隊です。
先ほど再読したさいに、気がつきました。
慎んでおわびをもうしあげます。
以下のとおり、訂正させていただきます。

 ×アメリカ軍 → 自衛隊 
 ×アメリカ兵 → 自衛隊員
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9月26日の当該箇所は、すでに直してあります。
それにしても、なぜ、自衛隊はこのとき、裕一郎くん(3歳)と康弘くん(1歳)を救助しなかったのでしょうか。
和枝さん(27歳)も大やけどを負っています。
ヘリコプターですぐに病院へ運んでいれば、子どもたちは助かったかもしれません。
悲憤を感じます。
ここで横浜米軍機墜落事故をふりかえってみます。

<1977年>
9月27日
・13時20分ころ 米軍機が、林さん宅のそばに墜落する。
9月28日
・0時50分 長男の裕一郎くん(3歳)が病院で死去する。
・4時30分 次男の康弘くん(1歳)が病院で死去する。

<1978年>
3月29日
・新聞の夕刊で、和枝さんが、「皮膚をわけてください」と訴える。
4月25日
・応募者25名の皮膚を移植する。
5月9日
・応募者42名の皮膚を移植する。

<1979年>
1月1日~1月2日
・1年3か月ぶりに、病院の外へ出る。2日間、生家で過ごす。
1月3日
・病院にもどる。
1月29日
・夫からはじめて、裕一郎くんと康弘くんが亡くなっていることを聞かされる。

それから約半年後のことです。
6月19日、和枝さんは退院します。
完治したわけではありません。
以降は、通院して、リハビリをすることになります。
和枝さんは歩行が困難な状況となっていました。
他にも、事故の後遺症がありました。
もう一度、1978年の出来事をみてみます。

(再掲)
<1978年>
3月29日
・新聞の夕刊で、和枝さんが、「皮膚をわけてください」と訴える。
4月25日
・応募者25名の皮膚を移植する。
5月9日
・応募者42名の皮膚を移植する。
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1978年5月9日のことでした。
植皮手術のあと、和枝さんは、呼吸困難となります。
麻酔の管が、のどを痛めたのです。
17日後、和枝さんののどに、小指大の穴があけられました。
カニューレ(空気を送りこむための管)をさすためです。
この措置によって、以後は、呼吸が楽になります。
よいことばかりではありません。
和枝さんは会話が困難な状況となってしまいます。

1979年6月19日に、和枝さんは退院しました。
その後は、父の土志田(としだ)勇さんの家ですごすことが多くなります。
林宅には、裕一郎くんと康弘くんの遺影が置かれています。
和枝さんは、二人の写真をみるのがつらかったのです。

1980年の4月のことです。
アキレス腱の手術のために和枝さんは、入院をします。
退院後も、通院生活がつづきます。

1981年9月9日、和枝さんは、カニューレを抜くために入院します。
病院には2か月ほど滞在しました。
手術はうまくいき、以降は、自由にはなしをすることができるようになります。
退院してまもなく、和枝さんと一久さんは、離婚します。
原因はすれちがいの生活が長くつづいたことにあるようです。
個人的な思いはありますが、ここではのべません。

それから8日後(11月28日)、和枝さんは肺炎を起こします。
ふたたび入院となりました。
11日後(12月9日)のことです。
のどに痰(たん)がつまり、呼吸困難となります。
そこで3か月ぶりに、カニューレをいれます。

正月は、病院で新年をむかえました。
入院中、父の勇さんは、和枝さんと、将来について語りあいました。
実家は生花店です。
勇さんは、JT(日本たばこ産業株式会社)からもらってきた権利の申込書をみせて、
「うちの花屋の店先でたばこ屋をしたらどうだ?」
といいました。
ほほえむ和枝さんをみながら、
「それとも和枝の好きなアクセサリーの店を開こうか?」
と、ことばをかさねます。
和枝さんが歓喜しました。
「本当なの? おとうさん」

1月21日のことです。
勇さんは、仕立ててきた着物を和枝さんにわたしました。
鮮やかな色と柄です。
受け取った和枝さんは、子どものようにはしゃぎました。
袖に腕をとおして、
「おとうさん、わたし、もうすぐ退院できるそうだから、着始めは家に帰ってからにするわ」
そういって、着物をたたみました。
翌日の22日、和枝さんののどから、カニューレが抜かれました。

2日後の24日のことです。
夕方、和枝さんは、のどが苦しいとうったえました。
父にきてもらうことにしました。
連絡を受けた勇さんは、午後6時に、病院へやってきました。
特に心配はしていませんでした。
脳裏には、着物を抱きしめて喜んでいる娘の姿がうかんでいます。

土志田勇著「米軍ジェット機事故で失った娘と孫よ」七つ森書館刊より、引用。改行を施しています。)

ところが、病室に入ったとたん、驚きました。
和枝は肩を大きくゆすって、あえいでいるではありませんか。
好物の寿司を持って行きましたが、手をつけることもできません。
ただ苦しいといいます。
前々日、カニューレを抜いたのがいけなかったのではないだろうか。
和枝もおなじ考えでした。
「お昼ごろ、看護師さんに、もう一度カニューレを入れてくれるよう、主治医の先生に頼んでもらったけど、だめなんだって」

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和枝さんの主治医は、この日、休みでした。
勇さんはその医師の家に電話をします。
医師は、病院で対応してもらってくださいといいました。
勇さんはそのことばをつたえます。
当直の医師も看護士も、とりあってくれません。
病院側は勇さんに対して、本日はもうお帰りくださいとつげます。

土志田勇著「米軍ジェット機事故で失った娘と孫よ」七つ森書館刊より、引用。改行を施しています。)

しかし、和枝の容態は悪くなるいっぽうです。
うなされるように言います。
「子どもたちのところへ行きたい。(死んだ)お母さんに会いたい」

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医師がこういいました。

土志田勇著「米軍ジェット機事故で失った娘と孫よ」七つ森書館刊より、引用。改行を施しています。)

呼吸困難には絶対にならないからだいじょうぶです。
いったん取ったカニューレをまた入れると、なかなか治りません。
カニューレをはずしたときは、どの患者さんでも苦しいような気分がするものです。
気分的なものですから、がまんしなさい。

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勇さんは割り切れない思いを残して、病室を辞しました。
午後10時すぎに帰宅しました。

土志田勇著「米軍ジェット機事故で失った娘と孫よ」七つ森書館刊より、引用。改行を施しています。)

玄関のドアを開けると、長男の妻、ツヤ子が血相を変えて、待ちかまえていました。
「和枝さんが危篤だと病院から連絡です。お母さん(和枝さんにとっては義理の母)たちは15分ほど前に出ていきました」
えっ、そんなばかな。あれからまだ1時間しかたっていないではないか。

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病院に到着しました。
先に家をでた勇さんの妻と長男もちょうど着いたところでした。
3人で病室へ入りました。
医者は、
「呼吸はとまっていますが心臓は動いています」
と説明しました。
深夜の2時30分、和枝さんは集中管理室に移されます。
同日の15時すぎに、医者がこういいました。
もう回復のみこみはない、と。
翌日の1時45分、和枝さんは帰らぬひととなりました。
死因は、心因性の呼吸困難です。
31年と1か月の生涯でした。

土志田勇著「米軍ジェット機事故で失った娘と孫よ」七つ森書館刊より、引用。改行を施しています。)

「お父さん、呼吸が苦しい、助けて」
和枝がそう言って、わたしの手をぎゅっと握りしめたのは、わずか30時間ほど前のことでした。
「なんとかしてよ、お父さん」
すがるような目でわたしを見つめていました。
それなのに、私は和枝を助けてやることはできなかった。

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「横浜米軍機墜落事故平和資料センター」という市民団体があります。
齋藤眞弘さん(74歳)が代表をされています。
今回のブログを書くにあたりまして、ぼくは、齋藤さんにお電話でいろいろとおはなしをうかがいました。
そのなかで感じたのは、事件を風化させてはいけないということです。

現在、出演強要問題が世間の関心事となっています。
人々はうつろいやすいです。
すぐに忘れてしまいます。
これを風化させないために、いま、がんばっているかたがいます。
各種メディアに登場されて、自身の経験を語っています。
いうまでもありません。
香西咲さんです。
国民は皆、香西咲さんを支持しています。

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