かつて、当ブログで、ベンサム(1748年~1832年)の功利説についてふれました。
(参考)
・2014年10月24日「幸福は人生の最大の目標である ~ドクターイエローを凌駕するものー」
当時ぼくが書いた文章を再掲します。
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(2014年10月24日)
人間は、苦痛と快楽(幸福)のもとで生活をしています。
自分たちの行動を決定づけるのは、快楽(幸福)です。
人間の行動はすべて、快楽(幸福)を求めておこなわれます。
ベンサムは、幸福を増進し苦痛を減少させるのが善である、と主張しました。
これを功利説といいます。
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補足します。
ベンサムは、最大多数の者が、最大の幸福を得られるような世の中にすることが政治の目標であると主張しました。
「最大多数の最大幸福」ということばは有名です。
ベンサムの門人(教え子)に、ジョン・スチュアート・ミル(1806年~1873年)がいます。
ぼくのブログのなかにも若干、登場します。
(参考)
・2014年10月24日「幸福は人生の最大の目標である ~ドクターイエローを凌駕するものー」
・2015年01年06日「大市民と、先哲の思想ー」
こちらも再掲します。
ぼくが記した文言です。
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(2014年10月24日)
弟子のジョン・スチュアート・ミル(1806年~1873年)も、幸福について、次のようにいっています。
幸福があらゆる行動の基本原理であり、人生の目標である、と。
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(2015年01年06日)
ぼくは、ジョン・スチュアート・ミル(1806年~1873年)のことばを思い出しました。
「幸福には量の差だけでなく、質の面でも違いがある」
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当時は、ミルの言説だけを掲載しました。
特に説明はしませんでした。
本日は、ミルが考える幸福につきまして、詳述させていただきます。
ミルは幼少のころから、英才教育を受けて育ちました。
語学については、3歳でギリシャ語、8歳でラテン語を学びます。
12歳からは経済学と哲学を修めます。
艱難辛苦(かんなんしんく)の日々でした。
20歳のときです。
ミルは、自分がこれまで取り組んできたことに対して、疑問をいだきます。
本当にこれでよかったのだろうか、と。
他のひとたちよりも多くの知識を身につけることはできました。
残念ながらそれは既成のものです。
自分で思索したものはありません。
あるとき、師のベンサムから教授された幸福論を再考してみました。
師は、
「快楽(幸福)が善で、その反対は悪である」
と主張します。
はたしてこれでいいのだろうか。
そのときの心情が、自著の「自叙伝」のなかに記されています。
その一部を紹介します。
(文章は、ぼくのほうでリライトしました。)
最初にミルは、以下のような自問自答をおこないます。
<ミル>
仮にあなたの生涯の目的がすべて実現した、とする。
あなたの求めている制度や思想の変革が、完全におこなわれたとする。
その時あなたは、大きな喜びや幸福感を感じることができるだろうか。
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自分の願いがすべて成就したのなら、これ以上の幸福はない、と普通は考えます。
<ミル>
そのとき、私の心から、
「いや、喜びや幸福は感じとれない」
という答が返ってきた。
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意外な返答です。
<ミル>
これを聞いて、私は愕然となり、私の全生涯を支えていた基盤が音をたてて崩れ落ちていくのを感じた。
もう私の生きていく目的は、何一つ残っていないというように感じられたのである。
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ミルはいったい、何をいいたいのでしょうか。
<ミル>
幸福があらゆる基本原理であり、人生の目的であるという私の信念はゆるがなかったが、幸福を直接の目的にしない場合にかえって、幸福は得られるのだ、と考えるに至った。
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ミルは、「幸福があらゆる基本原理であり、人生の目的である」と明言しています。
「幸福を直接の目的にしない場合にかえって、幸福は得られる」とは、いったいどういう意味なのでしょうか。
<ミル>
自分の幸福でない、例えば他人の幸福、人類の向上、あるいは芸術とか研究とかをそれ自体として追求する過程の中で、いわば副産物として幸福が得られるというように考えるに至ったのである。
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ぼくは、香西咲さんに関するつぎの文章を拝見したときに、ミルの上述のことばを想起しました。
(2016年7月29日 毎日新聞「香西咲さんのインタビュー記事」より、引用。改行を施しています。)
--なぜそこまで覚悟を決められた?
<香西咲さん>
AVが夢にはつながらないことに気付き、ダラダラやっているのはよくないと思ったんです。
「続けてもあと1年ぐらいかな」
「その間にAVで失った人間関係や健康状態を取り戻そう」
と思っていたタイミングで、出演強要が社会問題化しました。
フラッシュバックにもずっと悩まされてきたので、いつか決着をつけなければいけないと思っていた。
この(被害の)連鎖はもう止まらない。
(A氏が)どんどん新しい子を入れているのも分かっていたので、世の中のためにもなると思いました。
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香西咲さんのツイッター(2016年6月27日)より、引用。
世の中変えたいし女の子の働きやすい環境整備、性教育…やりたかったからあえてこの業界に残ったのに…
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香西咲さんのツイッター(2016年7月20日)より、引用。
(略。)
タブー視されがちな【性】ですが、私はもっとまともに教育をすべきだと訴えたいと思います。
隅に追いやると危険性も犯罪も増えると懸念しています。
入口は不本意な形でも携わってしまった以上、人の為になってから去りたい。
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香西咲さんは、
「(告発は)世の中のためにもなる」
「女の子の働きやすい環境整備(をやりたい)」
「人の為になってから去りたい」
ということを考えておられます。
ここで、ミルの思想をもう一度みてみます。
「幸福を直接の目的にしない場合にかえって、幸福は得られるのだ」
「自分の幸福でない、例えば他人の幸福、人類の向上、あるいは芸術とか研究とかをそれ自体として追求する過程の中で、いわば副産物として幸福が得られる」
香西咲さんは幸福になれます。
これほどまでに他者のことを慮(おもんぱか)っているのですから。
自分以外のひとのことを考えると幸福になれる-
このことは、アメリカの小説家が著したある作品のなかにも書かれています。
長くなりましたので、これにつきましては、そう遠くないうちにご紹介をしたいと思います。
ミルは「自叙伝」のなかで、幸福について、こうまとめています。
<ミル>
幸福になる唯一の道は、幸福でなく、なにかそれ以外のものを人生の目的に選ぶことである。
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またミルは、この「自叙伝」とは別に、「功利主義」という著書のなかで、つぎのようなことをのべています。
<ミル>
満足した豚であるよりも、不満足な人間であるほうがよく、満足した馬鹿であるよりも、不満足なソクラテスであるほうがいい。
ナザレのイエスの黄金律の中に、われわれは功利主義倫理の完全な精神を読みとる。
おのれの欲するところを人にほどこし、おのれのごとく隣人を愛せよというのは、功利主義道徳の理想の極地である。
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香西咲さんの生き方と重なります。
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■2016年7月07日 香西咲さんの特集記事(1)が週刊文春に掲載されました。
■2016年7月14日 香西咲さんの特集記事(2)が週刊文春に掲載されました。
■2016年7月17日 香西咲さんがAbemaTV(みのもんたの「よるバズ!」)に出演されました。
■2016年7月20日 香西咲さんのインタビュー記事が、しらべぇに掲載されました。
■2016年7月27日 香西咲さんのインタビュー動画が、毎日新聞のWebサイトにアップされました。
■2016年7月29日 香西咲さんのインタビュー記事が、毎日新聞のWebサイトにアップされました。
(引用。A氏による衝撃の回答)
--出演強要が社会問題化している。事務所の運営や女優との契約について見直しは?
A氏 当然やっていく。今、弁護士と話して、きちんとしていこうとしている。
(※A氏は、これまできちんとしていなかったことを認めました。)
■香西咲さんのツイッター
(香西咲さんの重要ツイート ~2016年7月18日)
私だって綺麗にリセット出来るならAVデビュー前の私に戻りたい。
だけど変えられない現状踏まえて立て直したのが今の形。(後略。)
(明日のブログへつづく)
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