今日も戦争について書いてみたいと思います。
ムッちゃん
以前、毎日新聞に、つぎのような記事が掲載されました。
引用させていただきます。
ちなみにこれは、孫引き(他の書物に引用されたものを原典にさかのぼって調べることなくそのまま引用することの意味)です。
(1977年 毎日新聞「戦争体験記」より、引用。改行を施しています。)
中尾町子さんが疎開先の大分市の防空ごう(空襲から身を守るために掘った洞穴)でムッちゃんに会ったのは、20年(1945年)春。
ごう(防空壕)は、西大分駅近くの海岸に迫った山はだに掘られていて、トンネルが枝状に分かれていた。
空襲が激しくなるにつれ当時6歳の中尾さんら子どもは奥へ奥へ待避するようになった。
その一番奥の一角にムシロ(わらなどを編んで作った敷物)2枚、その上に薄いふとんを敷いてムッちゃんはいつも寝ていた。
まくら元に水の入った竹筒とロウソクが2、3本。
「あの子は肺結核やから近寄ってはいけない」
と中尾さんは母親から言われた。
しかし、後から後から入る人に押されてムッちゃんのまくら元に座る回数がふえ、いつしか二人は手を握りあい爆音の恐怖に耐えた。
ムッちゃんは空襲警報を喜ぶふうだった。
独りぼっちの暗い穴に、大勢の人が避難してくるからだ。
ムッちゃんは当時、小学6年、12歳。
横浜で空襲に遭い、母親と弟が行方不明になって大分のおばの家にあずけられた。
「おばちゃんちの赤ちゃんに病気がうつるといけないから私はここにいるの」
と小声で話した。
長い髪を三つ編みにし、やせて目ばかり大きく見えた。
大空襲で暗やみが夕焼けのように赤く燃えた夜のこと。
こわさでのどがカラカラの中尾さん(当時6歳)は
「お水ちょうだい」
と母親にねだった。
「夜が明けるまでがまんしなさい」
と母。
するとムッちゃんが
「私のお水をあげる」
と竹筒を差し出した。
そばの女の人がいった。
「あんた肺病やないの。気やすう言わんとき」
母は短く
「がまんしなさい」
と繰り返した。
ムッちゃんの表情はよく見えなかった。
中尾さんは母に聞こえぬよう
「ちょうだい」
とムッちゃんにささやいた。
水はなまぬるく臭いにおいがして、一口しか飲めなかった。
「またほしくなったら言ってね」
とムッちゃんは言った。
その数日後に終戦。
中尾さんたちはごう(防空壕)に入る必要もなくなった。
そして、4、5日たってムッちゃんの死を知った。
「戦争が終わっても、横穴の中に放っておいたらしい」
「水の竹筒を握って餓死したそうや」
と大人たちはささやきあった。
私は母がムッちゃんのために初めて涙を流すのを見た。
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当時6歳だった中尾町子さんは、現在、京都にご在住のようです。
(2016年1月12日 毎日新聞「ことば」より、引用。改行を施しています。)
大分市に疎開した中尾町子さん(76)=京都府木津川市=が1977年夏、壕内でムッちゃんと出会った戦争悲話を毎日新聞に投稿した。
大分市では、83年にムッちゃん平和像が建てられ、翌84年から平和祭が毎年開かれている。
原案が中尾さん、文を中川正文さん、イラストを四国五郎さんが担当した絵本「ムッちゃん」(山口書店)が出版され、堀川弘通監督による映画「ムッちゃんの詩(うた)」も製作された。
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毎日新聞に、中尾町子さんの戦争体験記が掲載されたのは、1977年の夏です。
紙面は夕刊で、関西地区限定のものでした。
5年後の1982年のことです。
この体験記が、毎日新聞の全国版で紹介されました。
1982年1月23日 毎日新聞「記者の目」
大変な反響を呼びました。
1年後、大分市に、ムッちゃん平和像が建てられます。
(総務省のWebサイトより引用。)
<碑文> ~昭和五十八年(1983年)八月十二日
(毎日新聞社)
戦争に父をとられ
横浜空襲で母、弟にはぐれ
大分に疎開して胸を病み
防空壕に一人暮らして
飢え 渇き 逝った
少女 ムッちゃん
霊よ 安かれ
全国の祈りの寄金で建立
(大分市長)
可憐な少女が
父母の愛をうけることなく
防空壕の中で逝った
ムッちゃんの像に
私達市民は
平和を愛し 子供達が
健やかに育つ大分
平和よ永遠なれと此の地に誓う
<説明文(抄)>
二度と戦争による悲惨な惨禍を繰り返さないためにも、この平和像建立を機に平和への誓いを新たにするとともに、平和像が恒久平和のシンボルとして皆様に愛され、そして平和の輪がさらに広がることを願っております。
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東京大空襲
1945年の3月10日の深夜のことでした。
アメリカ軍の爆撃機が東京上空へやってきました。
0時15分から2時34分までの、2時間19分間、連々と(絶えることなく)焼夷弾(発火性の爆弾)を投下しました。
これによって、約9万人のかたが亡くなりました。
(※ウィキペディアでは、死者の数が、8万3793人となっています。これは間違いです。正しくは、8万8793人です。)
早乙女勝元さんという作家が、このときの様子を詳細に記しております。
一部を引用させていただきます。
(岩波新書刊「東京大空襲 ~昭和20年3月10日の記録」早乙女勝元著より、引用。改行を施しています。)
<橋本千恵子さんの場合>
(略)、川の中ばかりか、両岸の家は火だらけ。
こんな大きな火のかたまりがですね、強風にあおられてすっ飛んできたかと思ううち、人びとの肩や背にぺったりとはりつくんです。
そこからぱっと燃えあがって・・・・・・
でも、はじめのうちこそ、私たち、おたがいに教えあったり、もみ消したりしてました。
そのうち、他人どころの話ではなくなって、自分にもようしゃなく、火のかたまりがつき、それを消し、またつき、また消しているうちに、火の玉になってころげまわるひとがいても、もうどうすることもできなくなってしまいました。
髪の毛に火のついた人たちが、大声でわめき、苦しみながら、のたうちまわる。
背中の子ども(博)が、そのとき、ギャーッと、異様な声をあげましてね、あわてて、子どもをおろして胸に抱くと、口の中が真っ赤。
いえ、血じゃないの。
泣いている口の中に、火の粉が入っているんですよ。
火の粉が、のどをふさいでカーッと燃えてるんです。
私はあわてて、それを指でえぐり出しましてね。
(略。)
そのとき、私は、ああ、自分が死ぬというのは、こういうことなんだ、歩きはじめたばかりの子どもと一緒に、死ぬんだな・・・・・と思い、目をとじましたが、閉じたまぶたの裏にも、赤い炎がゆれています。
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橋本千恵子さんは、赤ん坊の博ちゃんを抱いて川に飛び込みます。
まもなくして上流から無人のイカダが流れてきました。
必死でそれによじのぼります。
しばらくして、小舟に救助されました。
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あたりは、うめき声だらけ。
助けてあげようと手をのばすのですが、川の中の人たちは、もう手にすがる力もないのです。
(略。)
やがて、煙の中に、うすぼんやりとにごった光がさしてきて、ほとんど何も見えず、何も考えられなくなった私の目に、いちばん先にうつったものは、川の上を泳いでくる小さな女の子でした。
そう四歳ぐらいの感じでしょうか。
「さあ、つかまって・・・・・」
と、私はまたふらふらと手を伸ばしましたが、よく目をこらしてみると、それは、うつむけに浮いた死体・・・・・だったのです。
モンペの上に、ちゃんと赤いへこおびをしめて・・・・・
それがゆらゆらと・・・・・水に浮いてるんですね。
思わず、自分の子どもをひしと抱きしめて、
「博、ヒロシ!」
って叫びました。
でも、唇がかすかに動いただけ・・・・・。
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週刊文春の香西咲さんのインタビュー記事から、引用。
「いっそ自分の人生を終わらせてしまおうかという衝動に駆られたことも一度や二度ではありません。」(2016年7月7日)
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「なぜ(AV撮影)を辞めなかったんだと思われるかもしれません。ですが、抜けるに抜けられない状況に追い込まれ、搾取されつづける絶望感は、体験したものにしかわからない。青木の支配下に置かれていた頃、私にとってAV撮影は自傷行為そのものでした。」(2016年7月7日)
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~「事務所の言いつけ通りに仕事をこなす日々。夢のためにと笑顔をつくって自分を奮い立たせたが、気がつけばアルコールと睡眠薬が必需品になっていた。」(2016年7月14日)
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「ストレスから円形脱毛症になり全身がけだるく、胃腸は毎日、抉られるように痛みました。自分で救急車を呼んだこともあった。屈辱がフラッシュバックし、絶望的に命を絶ちたくなるときも・・・・・・」(2016年7月14日)
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罪のないひとが、つらく苦しい思いをする。
このような世の中であってはいけません。
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■2016年7月07日 香西咲さんの特集記事(1)が週刊文春に掲載されました。
■2016年7月14日 香西咲さんの特集記事(2)が週刊文春に掲載されました。
■2016年7月17日 香西咲さんがAbemaTV(みのもんたの「よるバズ!」)に出演されました。
■2016月7月20日 香西咲さんのインタビュー記事が、しらべぇに掲載されました。
■2016月7月27日 香西咲さんのインタビュー動画が、毎日新聞のWebサイトにアップされました。
■2016月7月29日 香西咲さんのインタビュー記事が、毎日新聞のWebサイトにアップされました。
(引用。A氏による衝撃の回答)
--出演強要が社会問題化している。事務所の運営や女優との契約について見直しは?
A氏 当然やっていく。今、弁護士と話して、きちんとしていこうとしている。
(※A氏は、これまできちんとしていなかったことを認めました。)
■香西咲さんのツイッター
(香西咲さんの重要ツイート ~2016年7月18日)
私だって綺麗にリセット出来るならAVデビュー前の私に戻りたい。
だけど変えられない現状踏まえて立て直したのが今の形。(後略。)
(明日のブログへつづく)
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