まず隗(かい)より始めよ

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時折、
「まず隗(かい)より始めよ」
という故事を耳にすることがあります。
個人的にはけっこう好きなことばです。

本日はこの箴言が生まれた歴史的背景について書いてみます。
舞台は古代中国です。

かつては中国は、国内に数多くの都市国家が存在していました。
この自由都市のことを「邑(ゆう)」といいます。
これらを最初に統一したのが、「殷(いん)」です。
この王朝は長きに渡り繁栄します。
第30代目の王のときです。
配下に、「周」という邑(ゆう)がありました。
ここは徐々に勢力を拡大していき、B.C.1027年に、「殷(いん)」を滅ぼします。

「周」の治世がはじまります。
課題は邑(ゆう)の扱いです。
どのようにしてこれを御したら良いのか。
王は、自分の血縁の者に各邑(ゆう)の支配をゆだねることとしました。

邑の支配者のことを諸侯といいます。
諸侯の義務は、王に対する軍役と貢納です。
他にはありません。
責務さえ果たせば、諸侯は、邑(ゆう)をどのように支配してもかまいません。
王が口を挟むことはありませんでした。

「周」の成立から256年後のことです。
B.C.771年に、異民族が突如、侵入してきました。
都を占拠されます。
やむなく「周」は、東の都市(洛邑)に都を移しました。
以降は、「東周」(B.C.770年~B.C.256年)と呼ばれます。

「東周」になってからは、王の力が弱体化していきます。
歩調をあわせるかのようにして、各諸侯は自立をはじめます。
それはやがて、諸侯同士による領土争いへと発展していきます。

「東周」も二つに区分されます。
前半が春秋時代(B.C.770年~B.C.403年)で、後半は戦国時代(B.C.403年~B.C.221年)です。

春秋時代(B.C.770~B.C.403年)における各諸侯の符丁は、
「王を尊重して、守ろう」
です。
やがて各邑との戦いに勝利して、王をしのぐほどの勢力が台頭します。
これらの者たちはけっして、「東周」を倒そうとは考えませんでした。
自分たちは王の臣下です。
ただ、勝ち残ったいくつかの邑はそれぞれ、巨大化して、国レベルの規模となっていきます。

戦国時代(B.C.403~B.C.221年)になると、一転して、王の存在は無視されます。
「戦国の七雄」と呼ばれる強国が天下統一をめざして抗争を繰り広げました。
その7つとは、下図の韓(a)、魏(b)、趙(c)、斉(d)、燕(e)、楚(f)、秦(g)です。
 (下図は、世界史ノートから引用。)
戦国の七雄
「戦国の七雄」以外の小国も含めて、各国は、国を富ます有為な人材を求めました。
)の昭王も例外ではありません。
逸材の発掘に精力を傾注しました。

ご覧の通り)は北の端にあります。
当時のひとたちにとってそこは、魅力のある場所ではありませんでした。
王は苦悶します。
どうすればこのような辺鄙なところに有能な人物を招くことができるのだろうかと。

呻吟(しんぎん)した王は、大臣の郭 (かく かい)に相談しました。
聞き終えた相手が、口を開きました。
まず隗(かい)より始めよ
と。

怪訝な面持ちしている王に向かって、郭 (かく かい)がつづけます。
「まずはわたしにたくさんの褒美(ほうび)をあたえてください」
口をはさもうとする王を制して、ことばをつなぎます。
「宮殿も造ってください。財宝もください。そして、私を先生としてうやまってください」

王が呆れます。
「それはいったいどういうことなのだ?」
相手が薄く笑いました。
「私は人並みの人物です。これといって取り柄もありません。才能もありません」
王は無言で、目の前の人物のことばを待ちました。

(かく かい)がことばを発しました。
「燕の王は、郭 (かく かい)みたいな凡庸な者にたくさんの褒美をあたえて、先生としてうやまっている。この噂はすぐに全土へ広まるでしょう。そうすれば、私よりも才能のある人々が、自分ならばもっと良い待遇をあたえられるに違いない、と確信します。そのひとたちは皆、燕へやってくるでしょう」

昭王は感心しました。
さっそく実行に移しました。
結果は、郭 (かく かい)の考えた通りでした。
優秀な人材が続々と燕に集まってきました。

まず隗(かい)より始めよ

大辞泉には、次のように書かれています。
(一部を引用。)
大事業をするには、まず身近なことから始めよ。

大きなことを目標にかかげているのならば、まずは、手近なところからはじめなさい。
奥深いことばです。



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