人間の可能性(その1)

香西咲さんを勝手に応援するサイトの管理人の「焼酎好き」です。よろしくお願いします。

本日は、ある男性の人生について、書いてみたいと思います。
冒頭に、自分自身の立場を明確にしておきます。
ぼくは当該人物の生き方に対して、共感できるところはありません。
最初に申し添えておきます。

これからご紹介をする人物は、1934年に生まれました。
ちなみに日本は、その3年前(1931年)に満州事変を起こして、中国の東北地方(満州)を占領しております。
太平洋戦争中、男性の一家は、満州で生活をしていました。
父親は警察官です。
署長も務めました。
裕福な家庭でした。

終戦前に一家は、父の実家のある新潟県柏崎へ戻ります。
島秋人が10歳のときでした。
終戦の翌年のことです。
1月にGHQが、公職追放令を出しました。
これによって、満州で警察署長をしていた父親が、職を奪われます。
以降、一家は、極貧の生活を余儀なくされることとなります。

男性は幼少のころより、いくつもの病気をかかえていました。
虚弱でした。
このため学校も休みがちとなります。
成績は常に最下位でした。
時折登校する小学校で待っていたのは、皆からのあざけりでした。
「バカ」
「低能」
などと揶揄されて、孤独な一日を過ごしました。

テストが返却されるときに、屈辱的な思いをしたこともあります。
小学校の5年生のときでした。
担任の先生は答案を返すさいに必ず、点数を読み上げます。
男性は0点の答案を受け取ります。
自分の席へ戻ろうとしてうしろを向いたとき、先生に背中を蹴られました。
倒れます。
男性は床に顔をつけながら、四方から聞こえてくる笑い声を聞いていました。

中学生になったときです。
やさしかった母親が病死します。
当時、依然として生活は困窮していました。
このために満足な治療を受けさせることができませんでした。
未練のことばをのこして母は息を引きとりました。

中学校を卒業後、男性は新聞配達の仕事に就きます。
このころになると、自身の病状は恢復します。
ようやく人並みの暮らしができるようになりました。
ただ、これに比例するかのようにして、徐々に生活がすさんでいきます。

男性は集金した金をもって出奔(しゅっぽん)します。
上京したのち、各地で窃盗や強盗未遂を繰り返します。
やがて捕まり、少年院に送られました。

20歳のときに、出所します。
すぐに放火事件を起こして、懲役4年の刑を受けます。
服役後は、精神病院へ入院させられました。

25歳のとき、そこを退院します。
いったん父親のいる新潟へ戻りますが、しだいに居心地の悪さを感じていきます。
男性は家を離れます。
上京を考えました。
所持金がないので、かなわず、新潟県小千谷(おぢや)の郊外をあてもなく歩いていました。
ある農家の前で足が止まりました。
男性はその家に押し入ります。
主人に重傷を負わし、妻を絞殺しました。
その後、2000円を奪って逃走します。
男性は数日後に、逮捕されます。

26歳のときに、第一審の新潟地方裁判所で、死刑の判決が言い渡されました。
控訴したものの、翌年に棄却されます。
男性は最高裁に上告します。
死刑の判決は覆りませんでした。
1962年、28歳のときに、刑が確定します。

男性は第一審で、最初の死刑判決を受けました。
ひとりになったとき、これまでの自分の人生を振り返ってみました。
脳裏に去来するのは、嗤笑(ししょう)され、疎(うと)んじられ、虐げられた記憶ばかりです。
いつも皆からバカにされて生きてきました。
その時々で受けた痛みが浮かんでは消えていきます。
このような自分だけれども、何かひとつぐらいは良き思い出があるはずだ。
男性は熟考しました。
ありませんでした。

ある日のことです。
ひとつの記憶が鮮明に蘇りました。
それは中学校の美術の授業のときでした。
担当の先生が、こういったのです。
「絵は下手だけどクラスで一番構図が良い」
と。

自分にも人からほめられたことがあったのです。
男性はこの先生に手紙を書きます。

ちょっと長くなりました。
つづきは明日のブログでご紹介をしたいと思います。
テーマは、「人間の可能性」です。

話題は変わります。
香西咲さんの活躍ぶりがすさまじいです。
うれしくてしかたがありません。



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