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孔子の論語からー

香西咲さんを勝手に応援するサイトの管理人の「焼酎好き」です。よろしくお願いします。

昨日のつづきです。
先ほど、論語を再読しました。
不覚にも、ながめている途中で意識を失ってしまいました。
本日は、論語のなかから眠気のこないものをいくつかご紹介したいと思います。

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我は生まれながらにしてこれを知る者にあらず。
古(いにしえ)を好み、敏(びん)にして以(もっ)てこれを求むる者なり。

私だって、生まれつき才能があるわけじゃない。
先人の残してくれたものを良く読み、問題意識をもって探求してきただけである。

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子曰わく、賢(けん)を見ては斉(ひと)しからんことを思い、不賢を見ては内に自ら省(かえり)みる。

すぐれた人物にであったら、自分もあんなふうになりたいと思え。
くだらぬやつにであったら、わが身を反省せよ。
自分にも覚えはないかと。

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利に放(よ)りて行えば、怨(うら)み多し。

なにごとも利益本意でおこなうと、かならず多くのうらみを買うことになる。

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由よ、女(なんじ)にこれを知ることを誨(おし)えんか。
これを知るをこれを知ると為(な)し、知らざるを知らざると為(な)せ。是(これ)知るなり。

仲由(ちゅうゆ)よ、お前に 知るとはどういうことかを教えてあげよう。
知っていることは知っていると認め、知らないことは知らないと認めることだ。
自分に正直であること。
これが知るということにつながる。

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学びて時にこれを習う、亦(また)説(よろこ)ばしからずや。
朋(とも)あり遠方より来る、亦(また)楽しからずや。

知識を学び、随時それを実践に移す。
何と楽しいことか。
友人が遠くから訪ねてくれる。
これまた何と楽しいことか。

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道に志し、徳に依(よ)り、仁に依(よ)り、芸に游ぶ。

めざすものは、大きな道。
よりどころとするのは、立派な行為。
守るのは、他人への思いやり。
そして、教養を身につけて人間としての幅を広げたい。

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疏食(そし)を飯(くら)い水を飲み、肱(ひじ)を曲げてこれを枕とす。
楽しみ亦(ま)た其(そ)の中に在り。
不義にして富み且(か)つ貴(たっと)きは、我れに於(お)いて浮雲の如(ごと)し。

粗末な食事をして、水を飲み、あとはひじまくら。
こんな生活もけっこう楽しい。
悪いことをして裕福になり、身分が高くなっても、 それは私にとって空に浮かぶ雲のようにはかないものだ。

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三人行(ゆ)けば必ず我(わ)が師あり。
其(そ)の善なる者を択(えら)びてこれに従い、其(そ)の不善なる者にしてこれを改む。

三人で道を歩くと、かならず私の先生となるひとを発見することができる。
あるひとからは、その長所を見習うことができる。
不善をおこなう者がいれば、自分をかえりみてなおすことができる。

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君子は坦(たん)として蕩蕩(とうとう)たり。
小人は長(つね)に戚戚(せきせき)たり。

すぐれたひとはいつも、ゆったりとしている。
つまらない人間はいつも、くよくよしている。

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学(がく)は及ばざる如(ごと)くするも、なおこれを失わんことを恐る。

学問というやつは、いくらやっても追いつかない。
学んだと思っても、すぐに失ったような気分になる。

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子(し)、四(し)を絶つ。
意なく、必なく、固なく、我なし。

孔子には次の4つの欠点がなかった。
勝手な憶測をすること。
考えを押しつけること。
固執すること。
自分のことしか考えないこと。

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子、川上(せんじょう)に在りて曰(いわ)く、
「逝(ゆ)く者は斯(か)くの如(ごと)きか。
昼夜を舎(お)かず」

世の中はこのように過ぎ去って行くのだろうか。
昼も夜も休むことなく。

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知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼(おそ)れず

知恵のある者は、迷わない。
人に対して思いやりのある者は、思いわずらわない。
勇者は、おそれない。

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君子は人の美を成す。
人の悪を成さず。
小人(しょうじん)は是(これ)に反す。

すぐれたひとは、他人の良い面をみつけて伸ばしてやる。
つまらない人間は、他人のあら探しばかりする。

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その身正しければ、令(れい)せずして行わる。
その身正しからざれば、令すと雖(いえど)も従わず。

自分のおこないが正しければ、命令しなくてもひとはついてくる。
そうではなく、自分のおこないが正しくなければ、いくら命令をしてもひとはしたがわない。

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徳(とく)は孤(こ)ならず必ず隣(となり)あり。

徳がある者は、けっして孤立しない。
かならず理解者がちかづいてくる。

——————————————————————

論語は二千数百年も前のことばです。
古色蒼然としたいいまわしもあります。
孔子の意図とは別に、反対の教訓をえられるものもあります。
今回は、割と理解しやすいものを選んでみました。
いかがだったでしょうか。
上述しましたけれども、論語はみているうちに眠くなってしまうのが難点です。

「君子は坦(たん)として蕩蕩(とうとう)たり」
(すぐれたひとはいつも、ゆったりとしている。)

香西咲さんのようです。



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香西咲さんに紹介したい歴史のエピソード ~儒家の孔子

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昨日のブログで、「周」の戦国時代に活躍した商鞅(しょうおう)についてふれました。
「周」の時代区分はわかりづらいと思います。
簡単に図式化してみました。
 (※下図は、自作したものです。)

殷・周

「東周」は、戦乱の時代です。
世の中の価値観は常に変動しています。
為政者や民衆は、新しい秩序や考え方を希求しました。
時代の要請にこたえるかのようにして、数多くの思想家が登場してきます。
「諸子百家」とよばれるひとたちです。

「諸」は、たくさんの、という意味です。
「子」は、先生、です。
「百」はたくさんの、「家」は学派です。
つまり、たくさんの先生とたくさんの学派が、春秋時代の末期と戦国時代に登場しました。

本日は、孔子(B.C.551年頃~B.C.479年)についてみてみたいと思います。
この人物は儒家という学派の創始者でもあります。
本名は孔 丘です。
春秋時代の末期に活躍しました。

戦乱の世の中で孔子は、礼の必要性をときました。
 (下図は、世界史ノートから引用。)
戦国の七雄
 ※ 韓(a)、魏(b)、趙(c)、斉(d)、燕(e)、楚(f)、秦(g)

魯(ろ。上図を参照)で生まれた孔子は、54歳のときに、司法関係の大臣に任じられます。
奮闘しました。
鋭意、改革に着手します。
これに反対したのが貴族たちでした。
孔子は、こころざしなかばで、大臣の職をとかれます。

その後は、衛(上図を参照)や楚(上図の)などの諸国をめぐり、自説を展開しました。
残念ながら、どの国へ行っても、孔子の政治理念は理解されませんでした。
帰国後は、弟子の教育と、古典の整理に専念します。

孔子の思想をみてみます。
根幹をなすのは、です。

という字には、どのような意味があると思いますか。
仁は、「人」と「二」からできています。
つまり、人が二人いる、ということをあらわしています。
いまここに、二人の人物がいます。
両者の間において必要なことは何でしょうか。

それは、相手への思いやりです。
仁とは、敬愛の心です。

相手は自分の目で仁をみることができません。
そこで、これを具現化することが必要です。
仁を具体的なかたちであらわしたものをといいます。
たとえば、頭をさげて、
「よろしくお願いします」
とか
「ありがとうございました」
というのが、礼です。
相手を激励したり、お世話になったひとにおくりものをするのも、礼です。

孔子は、人々による礼の実践によって、失われた秩序を回復することができる、と考えました。
当時、各国は、泥濘(でいねい)の争いをしていました。
それぞれの国が求めていたのは平和ではありません。
相手に打ち勝って、覇者になることです。
このため、孔子の考えは受け入れられませんでした。

孔子の思想は、その後の歴代王朝で、正当な学問として重用されます。
秩序の回復が根底にあるので、支配者にとっては都合のよい思想でした。
朝鮮や日本などにも大きな影響を及ばします。

孔子の言行は弟子たちが記録しました。
これが「論語」です。

ぼくも関連する本を含めて何冊かもっています。
ただ、論語を読んでも、あまりときめくものがありません。
退屈です。
そうはいいましても、興味深いものもいくつかあります。
とりあえず、有名な文言を3つご紹介します。
ご存じかもしれませんが。
(訳は大辞林を参考。)

巧言令色(こうげんれいしょく)鮮(すくな)し仁(じん)
 ・・・・・・たくみな言葉をもちい、表情をとりつくろって人に気に入られようとする者には、思いやりの心が欠けている。

義を見てせざるは勇(ゆう)無きなり
 ・・・・・・人として当然行うべきことと知りながら、それを実行しないのは勇気がないからである。

朝(あした)に道を聞かば夕べに死すとも可なり」
 ・・・・・・朝に人としての大切な道を聞いて悟ることができれば、その晩に死んでも心残りはない。

ちなみにぼくは、次のことばが好きです。

厩(うまや)焚(や)けたり、子、朝(ちょう)より退きて曰く、人を傷(そこ)なえりやと。馬を問わずと」
 ・・・・・・馬小屋が火事になって焼け落ちた。
朝廷から戻ってきた先生が言われた。
「やけどやけがをしたものはいなかったか?」
と。
馬の損失についてはお聞きにならなかった。

これ以外にもまだ佳作があったと思います。
明日、久しぶりに読み返してみます。
もしも、おもしろいのがありましたら、ご紹介をします。

香西咲週刊大衆
(※大きな写真は香西咲さんのブログで拝見することができます。)

香西咲さんの記事が週刊大衆に掲載されました。
爽快な気分です。
これからの香西咲さんの活躍が楽しみです。



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香西咲さんに紹介したい歴史のエピソード ~法家の商鞅

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2015年1月26日2015年1月27日のブログで、「周」についてふれました。
まずは、この王朝の時代区分につきまして、簡単にふりかえってみます。

周 (B.C.1027年~B.C.256年)・・・・・・771年間

周は遷都を境にして、二つに区分されます。
前半が西周、後半は東周です。

 ●西周(B.C.1027年~B.C.771年)・・・・・・256年間。都は、鎬京(こうけい。下図の
 ●東周(B.C.770年~B.C.256年)・・・・・・514年間。都は、洛邑(らくゆう。下図の
(下図は、世界史ノートから引用。)
鎬京、洛邑

東周 (B.C.770年~B.C.256年)・・・・・・514年間

東周は前期と後期に分かれます。
前期が春秋時代、後期は戦国時代です。

・B.C.770年~B.C.403年(367年間)=春秋時代
・B.C.403年~B.C.221年(182年間)=戦国時代

ちなみに「東周」はB.C.256年に、によって滅ばされます。
このあとのB.C.256年からB.C.221年までの35年間も、戦国時代に含まれます。

2015年1月26日のブログでも紹介しました。
戦国時代に各国は、自国を富ましてくれる優秀な人材を求めました。
(下図の)がおこなった「まず隗(かい)より始めよ」は、有名です。
 (下図は、世界史ノートから引用。)
戦国の七雄
 ※ 韓(a)、魏(b)、趙(c)、斉(d)、燕(e)、楚(f)、秦(g)

本日の舞台は、孝公(在位B.C.361年~B.C.338年)が治めていた(上図の)です。

衛(上図を参照)という小国に、商鞅(しょうおう)という人物が住んでいました。
この男はかねてより、国の役人を志望していました。
あるとき、(上図の)の国で、人材を求めていることを知ります。
商鞅(しょうおう)は、つてを頼って、統治者である孝公(在位B.C.361年~B.C.338年)との面談にこぎつけます。

孝公は、商鞅(しょうおう)のことが気に入り、大臣に任じます。
これを知った貴族たちは驚き、憤慨します。
他の国からやってきた者をいきなり抜擢するとはなにごとだ、と。

商鞅(しょうおう)は、自分が周囲から疎んじられていることに気がつきました。
貴族から認めてもらうためには、人心を掌握する必要があります。

商鞅(しょうおう)は市場へおもむきました。
市場の周囲は城壁でかこまれています。
まずは、南の門のところに、材木を一本建てました。
あわせて、触書も掲げました。
「この材木を市場の北門に移した者には金十斤を与える」
と。
十斤の金の重さは、約3.4キログラムです。

門の前は群衆であふれました。
方々でどよめきがわき起こります。
喧噪と猥雑な雰囲気が入り乱れました。
人々はかまびすしく巷談(こうだん)をするものの、材木には手を触れようとしません。
商鞅(しょうおう)は得体の知れない人物です。
これは陥穽(かんせい)かもしれません。

数日後、商鞅(しょうおう)は、賞金を5倍にしました。
それを知ったある男が、意を決したかのようにして、木にさわりました。
もちあげます。
ざわめきを背にして、男は、指定されている場所まで運びました。

商鞅(しょうおう)はすぐに、金をあたえました。
評判はまたたくまに広がりました。
今度の大臣は信用できる、と。
貴族たちもその勢いにおされて、しばし静観することにしました。

商鞅は、「変法」と呼ばれる改革をおこないました。
二つ紹介します。

一つ目は、連帯責任の制度です。
国民は隣近所のひとたちと一緒にグループをつくります。
隣組です。
もしもこのグループのなかの誰かが、犯罪者をかくまったら、そのグループ全体が罰せられます。
納税も同様です。
期日までに納めない家が一軒でもあったら、他の者たちも責任を問われます。

二つ目は、分家の新設です。
当時、農家のひとたちは大家族で暮らしていました。
これを核家族にしました。
家を離れたひとたちに対して国は、未開の土地をあたえます。
耕地面積が広がった結果、秦の税収は増大しました。

商鞅の統治の基本は、法律による支配です。
きまりを細かく定めて、それを人々に守らせました。

改善を求めて、商鞅に直訴したひとたちもいます。
民衆に対してもう少しやさしい政治をおこなってください、と。
商鞅は聞く耳をもたず、異をとなえる者たちを処刑しました。

しばらくして、秦の国では、盗人がいなくなりました。
道に財布が落ちていても誰も拾いません。
みつかると法律で厳しく罰せられるからです。

戦争で活躍をした農民には貴族の位をあたえるという制度もできました。
同時に、戦いで功績を残せなかった貴族は、その位を剥奪されました。
戦乱の世の中です。
人々は功を成し遂げようと必死で戦いました。

法律の厳罰化によって、秦は、進化します。
これまでは普通の国でした。
それが、戦国時代を制することのできる国へと変貌します。

孝公からの信頼が厚い商鞅は、わが世の春を謳歌します。
大臣になってから18年後のことです。
B.C.338年に、孝公が死去します。

ここで、積年の不満をいだいていた貴族たちが反撃にでます。
「商鞅は反乱をくわだてています」
新たに即位した王は、この忠言を信じます。
「ただちに商鞅を引っ捕えよ」

危険が迫っていることを察知した商鞅は逃げます。
国外をめざしました。
なんとか国境の近くまでやってきました。
すでにもう、夜です。
商鞅は近くの旅館で一泊することにしました。

館内に入ろうとする商鞅に対して、旅館の主人がこういいました。
「旅券をおもちですか?」
もっているはずがありません。
「そんなものはない」
「商鞅さまがおつくりになられた法律により、旅券を持たないおかたをお泊めてしてはいけないきまりとなっております」
商鞅は慨嘆しました。
自分が法律を徹底させた結果、このような事態を招いてしまった、と。

商鞅はこのあと、夜通し歩いて国外へ脱出します。
その後、挙兵しますが、秦との戦いで戦死します。



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仕事が楽しみならば、人生は楽園ー

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ドストエフスキー (1821年~1881年)というロシアの小説家がいます。
著名なので、ご存じかもしれません。
代表作は、
「罪と罰」、
「白痴」、
「悪霊」、
「未成年」、
「カラマーゾフの兄弟」、
の5つです。
他には、「死の家の記録」という著作も知られています。
ドストエフスキーは思想犯として、1849年から1854年までの5年間、シベリアの地で服役しました。
この経験にもとづいて執筆したのが、「死の家の記録」です。
著作のなかに、労働の意義に関する記述があります。
一部を引用します。

(ドストエフスキー著 工藤精一郎訳「死の家の記録」。新潮文庫の33ページ、34ページから引用。)

第二章 最初の印象

たとえば、[監獄内の]労働そのものにしても、けっしてそれほど辛つらい苦役とは思われなかった。
そしてこの労働の辛さと、苦役であることの特徴が、労働が苦しく、絶え間ないものであるということよりは、むしろそれが強制された義務で、笞(むち)の下で働かなければならない、ということにあることを悟ったのは、かなりあとになってからである。

ぼくは学生時代よく、友人たちと麻雀をしました。
徹夜をしたこともあります。
あるときのことです。
朝方、友人のひとりが、ひとりごとのようにつぶやきました。
「これが強制されたものだったら苦痛だろうな」
と。
ぼくは肯(うなず)いていました。

(引用)
世間の百姓の方が、おそらく、比べものにならぬほど余計に働いているだろう、ときには、特に夏時分などは、夜なべまでしている。
だが百姓は自分のために、筋道の通った目的を持って働いているのであり、強制されて、自分のためにはまったく何の利益もない労働をしている囚人よりは、どれだけ楽かわからない。

ぼくの知人で、年中、やすむことなく働いているひとがいます。
「つらくない?」
と訊(き)くと、
「仕事が趣味だから」
と返されました。
いつも楽しそうです。
幸せな人生なのかもしれません。

(引用)
私はふとこんなことを思ったことがあった。
つまり、もっとも凶悪な犯人でも震えあがり、それを聞いただけでぞっとするような、恐ろしい刑罰を加えて、二度と立ち上がれぬように押しつぶしてやろうと思ったら、労働を徹底的に無益で無意味なものにしさえすれば、それでよい
今の監獄の苦役が囚人にとって興味がなく、退屈なものであるとしても、内容そのものは、仕事として、益も意味もある。
囚人は煉瓦を焼いたり、畑を耕したり、壁を塗ったり、家を建てたりさせられているが、この労働には意味と目的がある。
苦役の囚人が、どうかするとその仕事に熱中して、もっとうまく、もっと具合よく、もっと立派に仕上げようなどという気さえ起こす。

アメリカの求人情報サイトのキャリアキャスト・ドットコムでは毎年、職業別ストレスランキングを発表しています。
アメリカと日本では環境が違いますけれども、参考になると思います。
下記をご覧になってください。
2014年の調査です。

ストレスの多い職業

1位 下士官兵(小部隊の隊長) 
2位 将官(軍隊のトップ) 
3位 消防士 
4位 パイロット
5位 イベントコーディネーター 
6位 広報部門の幹部
7位 企業幹部(上級)
8位 記者(新聞)
9位 公務員
10位 タクシー運転手

(引用)
ところが、たとえば、水を一つの桶(おけ)から他の桶へ移し、またそれをもとの桶に戻すとか、砂をつくとか、土の山を一つの場所から他の場所へ移し、またそれをもとへ戻すとかいう作業をさせたら、囚人はおそらく、四、五日もしたら首をくくってしまうとか、あるいはたとい死んでも、こんな屈辱と苦しみから逃れた方がましだなどと考えて、やけになって悪事の限りを尽くすかもしれない。

「水を一つの桶から他の桶へ移し、またそれをもとの桶に戻す」
「砂をつくとか、土の山を一つの場所から他の場所へ移し、またそれをもとへ戻す」
これを繰り返し強制されている自分の姿を想像すると、身震いがします。

(引用)
もちろん、このような刑罰は何らの合理的な目的を達しないから、拷問や復讐と変わるところがなくなり、無意味なものとなるであろう。
ところが、わずかでもこうした拷問や、無意味や、屈辱の要素は、どんな強制労働にも必ずあるので、だから苦役は、強制されるというそのことによって、どんな自由な労働よりも、比較にならぬほど苦しいのである。

「無意味や、屈辱の要素は、どんな強制労働にも必ずある」
ストレスを感じる職業には、このような要素が内包されているのでしょうか。

ちなみに、ストレスの少ない職業は次の通りです。

1位 聴覚訓練士
2位 ヘアスタイリスト
3位 宝石職人
4位 大学教授(終身在職権付き)
5位 仕立屋
6位 栄養士
7位 医療事務管理士
8位 図書館員
9位 マルチメディアアーティスト
10位 機械工 

ロシアのゴーリキー(1868年~1936年)の作品のなかにも、似たような記述があります。
(ゴーリキー著 中村白葉訳「どん底」岩波文庫、より引用。)

仕事が楽しみならば、人生は楽園だ。
仕事が義務ならば、人生は地獄だ。

仕事を「仕事」と冷徹に割り切るよりも、楽しみながらおこなったほうが、充実した人生をおくることができるのかもしれません。
ゴーリキーがいうように、「仕事が義務ならば、人生は地獄」といえるでしょう。

香西咲さんのTwitter(2014年12月10日)より引用。

今日も頑張りました
楽しかった~充実充実

香西咲さんのTwitter(2014年12月18日)より引用。

ありがとうございます
でも苦労とは思ってないです。
今物凄く楽しいし幸せです
ファンの方々には違う見え方してると思うけど。

香西咲さんのTwitter(2015年1月7日)より引用。

撮影楽しいわぁ~

香西咲さんのブログ(「基礎固めの2015年(。・ω・)ノ゙☆」(2015年1月17日))より引用。

新境地、慣れない事だらけで
毎日、「こうすればよかった(><)」っていう
反省事がいっぱいです。

(中略)。

結果を恐れず
とにかく楽しんで行きたいと思います。

(再掲)
「仕事が楽しみならば、人生は楽園だ」

香西咲さんの人生がより良きものになることを願っております。



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香西咲さんの笑顔と、笑わない傾国の美人

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昨日は、
「まず隗(かい)より始めよ」
のことばが生まれた背景についてふれました。
歴史の流れとしては、「随」の末期から「周」末の戦国時代までを簡単になぞりました。
この時代は、随所に興味深いエピソードがあります。
本日はこちらのほうを書いてみたいと思います。

殷 (B.C.1550年~B.C.1050年頃)

(昨日の当ブログの記事を再掲。)
30代目の王のときです。
配下に、「周」という邑(ゆう)がありました。
ここは徐々に勢力を拡大していき、B.C.1027年に、「殷(いん)」を滅ぼします。

もう少しくわしく記してみます。
第30代目の王の名は、紂(ちゅう)です。
この王は暴君として知られています。
「酒池肉林」(しゅちにくりん)をご存じでしょうか。
紂(ちゅう)王はこれに夢中であったといわれています。

「酒池肉林」を辞書等で調べてみましたところ、次のようなことが書かれていました。
一部を引用します。

(広辞苑)
史記殷本紀
「以酒為池、懸肉為林」
酒や肉が豊富で、豪奢を極めた酒宴。

(デジタル大辞泉)
《「史記」殷本紀の「酒を以て池となし、肉を懸けて林となす」から》
酒や食べ物がふんだんにある、贅(ぜい)を極めた酒宴。

(大辞林)
〔池のように酒をたたえ、林のように肉をかけ並べて酒宴を張ったという「史記殷本紀」に見える紂王(ちゆうおう)の故事から〕
ぜいたくをきわめた酒宴。

(日本大百科全書)
池の水のように豊富な酒と、木々の立ち並ぶ林のように架けられた肉の意で、酒や肉などの御馳走(ごちそう)がいっぱいの豪奢(ごうしゃ)な遊楽や酒宴のたとえ。
ために百姓たちは遠くからこれを望んでは恨んだ、と『史記』「殷本紀」に伝える。

紂(ちゅう)王が傾倒したとされる「酒池肉林」は、漢(前漢)の時代に書かれた「史記」の中で紹介されました。
この歴史書の著者は、司馬遷(B.C.145年頃~B.C.86年頃)です。

紂(ちゅう)王は人造の池のなかに、水ではなく酒を入れました。
まわりの木の枝に肉をつり下げて、好きなときにこれを思う存分食した、といわれています。

ただ、これは、「殷(いん)」を滅ぼした「周」が、自己の正当性を主張するために創作したものとの説もあります。

周 (B.C.1050年頃~B.C.256年)

(昨日の当ブログの記事を再掲。)
「周」の成立から279年後のことです。
B.C.771年に、異民族が突如、侵入してきました。
都を占拠されます。

やむなく「周」は、東の都市(洛邑)に都を移しました。
以降は、「東周」(B.C.770年~B.C.256年)と呼ばれます。

都を奪われたのには理由があります。
このときの統治者は、第12代目の幽王でした。
妻も有名です。
褒姒(ほうじ)といいまして、絶世の美女です。
残念なことにこの女性には、ひとつ欠点がありました。
生まれてから一度も笑ったことがないのです。
王は毎日、妻を笑わすことに心血を注ぎました。

(下図は、世界史ノートから引用。)
殷のマーク が、殷の領域。
殷の範囲
「周」の都は鎬京(こうけい。上図の番)です。
以前から中国には異民族がやってきて、略奪を繰り返していました。
敵が迫ると「周」は、のろしをあげます。
各邑(ゆう)は、遠くで立ちのぼるこの煙をみると、助けに馳せ参じます。

あるとき、都の鎬京で煙があがりました。
東方から援軍がやってきます。
ところがこれは誤報でした。
誤ってのろしをあげたのです。
おおあわてでやってきた各邑(ゆう)の軍隊は、それを知って汗を拭いました。
この動転ぶりを目(ま)の当たりにして、褒姒(ほうじ)は、大笑いをしたのです。

これをみて幽王は歓喜しました。
愛する妻がついに笑ってくれた。
忽々(こつこつ)たる気分になった王は、毎日、のろしをあげます。
そのたびに、軍隊がかけつけます。
人々の狼狽ぶりをみて褒姒(ほうじ)は、破顔しました。

やがて各邑(ゆう)の軍隊は、くゆる煙をみても、反応しないようになりました。
不実に決まっているからです。

こうしたなか、B.C.770年に、西北から犬戎(けんじゅう)が侵入してきました。
以前より中国の西部に住んでいる牧畜民族です。

王は一心不乱にのろしをあげました。
当然、援軍はやってきません。
幽王は異民族に殺害されます。
都の鎬京は陥落しました。
このあと「周」は、都を鎬京(上図の)から、東方の洛邑(らくゆう。上図の)に移します。
(下図は、世界史ノートから引用。)
鎬京、洛邑
以降は、「東周」とよばれます。

中国の歴史には、傾国の美人が複数登場します。
数あるなかでも、この褒姒は異色です。

褒姒と対極をなすのが、香西咲さんです。
香西咲写真 香西咲写真 香西咲新作
(※注 大きな写真は香西咲さんのツイッターでご覧になることができます。)

褒姒が傾国の美人であるのなら、香西咲さんは、救国の美人です。
香西咲さんの笑顔は至高です。



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まず隗(かい)より始めよ

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時折、
「まず隗(かい)より始めよ」
という故事を耳にすることがあります。
個人的にはけっこう好きなことばです。

本日はこの箴言が生まれた歴史的背景について書いてみます。
舞台は古代中国です。

かつては中国は、国内に数多くの都市国家が存在していました。
この自由都市のことを「邑(ゆう)」といいます。
これらを最初に統一したのが、「殷(いん)」です。
この王朝は長きに渡り繁栄します。
第30代目の王のときです。
配下に、「周」という邑(ゆう)がありました。
ここは徐々に勢力を拡大していき、B.C.1027年に、「殷(いん)」を滅ぼします。

「周」の治世がはじまります。
課題は邑(ゆう)の扱いです。
どのようにしてこれを御したら良いのか。
王は、自分の血縁の者に各邑(ゆう)の支配をゆだねることとしました。

邑の支配者のことを諸侯といいます。
諸侯の義務は、王に対する軍役と貢納です。
他にはありません。
責務さえ果たせば、諸侯は、邑(ゆう)をどのように支配してもかまいません。
王が口を挟むことはありませんでした。

「周」の成立から256年後のことです。
B.C.771年に、異民族が突如、侵入してきました。
都を占拠されます。
やむなく「周」は、東の都市(洛邑)に都を移しました。
以降は、「東周」(B.C.770年~B.C.256年)と呼ばれます。

「東周」になってからは、王の力が弱体化していきます。
歩調をあわせるかのようにして、各諸侯は自立をはじめます。
それはやがて、諸侯同士による領土争いへと発展していきます。

「東周」も二つに区分されます。
前半が春秋時代(B.C.770年~B.C.403年)で、後半は戦国時代(B.C.403年~B.C.221年)です。

春秋時代(B.C.770~B.C.403年)における各諸侯の符丁は、
「王を尊重して、守ろう」
です。
やがて各邑との戦いに勝利して、王をしのぐほどの勢力が台頭します。
これらの者たちはけっして、「東周」を倒そうとは考えませんでした。
自分たちは王の臣下です。
ただ、勝ち残ったいくつかの邑はそれぞれ、巨大化して、国レベルの規模となっていきます。

戦国時代(B.C.403~B.C.221年)になると、一転して、王の存在は無視されます。
「戦国の七雄」と呼ばれる強国が天下統一をめざして抗争を繰り広げました。
その7つとは、下図の韓(a)、魏(b)、趙(c)、斉(d)、燕(e)、楚(f)、秦(g)です。
 (下図は、世界史ノートから引用。)
戦国の七雄
「戦国の七雄」以外の小国も含めて、各国は、国を富ます有為な人材を求めました。
)の昭王も例外ではありません。
逸材の発掘に精力を傾注しました。

ご覧の通り)は北の端にあります。
当時のひとたちにとってそこは、魅力のある場所ではありませんでした。
王は苦悶します。
どうすればこのような辺鄙なところに有能な人物を招くことができるのだろうかと。

呻吟(しんぎん)した王は、大臣の郭 (かく かい)に相談しました。
聞き終えた相手が、口を開きました。
まず隗(かい)より始めよ
と。

怪訝な面持ちしている王に向かって、郭 (かく かい)がつづけます。
「まずはわたしにたくさんの褒美(ほうび)をあたえてください」
口をはさもうとする王を制して、ことばをつなぎます。
「宮殿も造ってください。財宝もください。そして、私を先生としてうやまってください」

王が呆れます。
「それはいったいどういうことなのだ?」
相手が薄く笑いました。
「私は人並みの人物です。これといって取り柄もありません。才能もありません」
王は無言で、目の前の人物のことばを待ちました。

(かく かい)がことばを発しました。
「燕の王は、郭 (かく かい)みたいな凡庸な者にたくさんの褒美をあたえて、先生としてうやまっている。この噂はすぐに全土へ広まるでしょう。そうすれば、私よりも才能のある人々が、自分ならばもっと良い待遇をあたえられるに違いない、と確信します。そのひとたちは皆、燕へやってくるでしょう」

昭王は感心しました。
さっそく実行に移しました。
結果は、郭 (かく かい)の考えた通りでした。
優秀な人材が続々と燕に集まってきました。

まず隗(かい)より始めよ

大辞泉には、次のように書かれています。
(一部を引用。)
大事業をするには、まず身近なことから始めよ。

大きなことを目標にかかげているのならば、まずは、手近なところからはじめなさい。
奥深いことばです。



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怒りは優しさによって消すことができるー

香西咲さんを勝手に応援するサイトの管理人の「焼酎好き」です。よろしくお願いします。

香西咲さんのブログ(基礎固めの2015年(。・ω・)ノ゙☆)から引用。

おみくじ引いたら

・謙虚に
・人を恨むことなく
・過去に囚われる事なく
・健康に注意しなさい

との事でした。

・・・うーん

占いやおみくじって信じませんが
今回は正直、思い当たる節がいっぱいですね。

今回のこのおみくじには、慧眼(けいがん)があるのではないでしょうか。
どれもが有益な箴言(しんげん)であると感じます。

高光一也さんというかたがいらっしゃいます。
日本を代表する洋画家です。
金沢美術工芸大学の教授も歴任されました。
1986年には文化功労者に選ばれています。

本日の話題は、こちらの高光一也さんに関してではありません。
妻のかちよさんについてです。

以前に、ふとしたきっかけで、高光かちよさんが著されたエッセーの存在を知りました。
かなり前に上梓されたものです。
調べてみましたところ、絶版になっていました。
読んでみたかったものですから、古書を購入しました。

(再掲)
人を恨むことなく

香西咲さんのこの一節を拝見したとき、忘れていた高光かちよさんの文章を思い出しました。

高光かちよ著「智慧海のごとく」~しあわせの引き出し箱(光雲社刊)の中から、一部を引用させていただきます。

荷物とは知らなかった

高光かちよさんは、石川県に在住しています。
上京したある朝、タクシーに乗り込みました。
運転手は無言です。
かちよさんが、行き先をつげました。
返事は返ってきません。
突然、運転手がこういいました。

(引用)
「わしらお客さんかて荷物なみだから」

かちよさんは耳を疑いました。
これが客に向かっていうことばなのだろうか。
すぐに気を取り直します。

(引用)
「運転手さん、この荷物、大分古くなっているから、こわれないように運んでね」

静寂ののち、運転手が口を開きました。
会話のなかで、自分が勤めている会社への不満なども吐露しました。

(引用)
私は車から降りるときに
「運転手さん、あなたは大分血の気の多い人みたいだから気をつけてね」
と言いましたら、運転手さんも
「お客さん、帰り気をつけてね」
と言ってくれました。
嬉しかったです。

人を恨むことなく
高光かちよさんは、このことだけでなく、ささくれている運転手の心も柔和にしました。

イソップ物語における「北風と太陽」の教訓を連想させます。
北風が強く吹けば吹くほど、旅人はかたくなに着物を押さえつけました。

1989年にノーベル平和賞を受賞したダライ=ラマ14世(1935年~)も、次のようなことをいっています。

火を火で消すことはできないのと同じように、怒りが怒りを消すことはできません。
火は水によって消されるのと同じように、怒りは優しさによって消すことができるものです。

怒りは優しさによって消すことができる
非暴力をつらぬいたガンジーも、不正をおこなう相手に対しては、真理に目ざめさせるという武器で戦いました。

以前にも書きました。
ぼくは基本的に、売られた喧嘩は買います。

(再掲)
人を恨むことなく

今年はこちらもこの路線も取り入れていきたいと思います。



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香西咲さんに紹介したい歴史のエピソード ~イスラム教(喜捨、巡礼)

香西咲さんを勝手に応援するサイトの管理人の「焼酎好き」です。よろしくお願いします。

本日は、喜捨と巡礼についてみてみます。

五行

(4)喜捨

喜捨とは、貧しいひとにほどこしをすることです。
2015年1月21日のブログでもふれました。
神は、ムハンマドに、次のようなことばを伝えたとされます。

悪口、中傷をなす者に災いあれ。
彼らは財を蓄えては、それを数えているばかりいる。
財が人を不滅にする、とまで考える。
必ずや彼らは地獄の炎に焼かれるであろう。
お前は、最後の審判などうそっぱちだ、などという輩(やから)をみたか。
連中は孤児を手荒に扱い、貧しい者に糧食を与えようとはしない。
災いあれ。

イスラム教は平等主義をとなえています。
「神の前ですべての人間は平等である」との考えが根底にあります。
そうはいいましても、現実的に、富の偏在はなくなりません。
このため、原点に戻れ、という運動が常におこっています。
イスラム原理運動などはこの代表といえるでしょう。

イスラム教をはじめたムハンマドは、商人の出身です。
商業活動は認めています。
利益をあげることはかまいません。
ただ、富を蓄財することは下賎であると考えます。

銀行預金もそうです。
信者の多くは利子を受け取りません。
喜捨にまわしてくれ、というそうです。

イスラム教の世界における一番の悪口をごぞんじでしょうか。
「あのひとはけちだ」
これが最大の侮辱です。

喜捨の本来の意味は、「浄(きよ)め」だそうです。
片倉ともこ著「イスラームの日常生活」(岩波新書刊)より引用。

喜捨することによって、自分の財産が浄(きよ)められると考える。
したがって、ザカート(喜捨)をもらった人は、「ありがとうございました」とは言わない。
もてるひとの財産をきよらかなものにし、そのひとが宗教的義務をはたす手伝いをしてあげたのだと考える。
(略)。
もらってやったんだからおまえの方がありがとうと言え、というような顔をしたりもする。

筆者の片倉ともこさんはタクシーに乗っていて、次のようなやりとりを見聞きしました。

(引用)
(信号待ちをしているときに)子どもの物売りが、たあいもないものを売りにくる。
そんなものは必要でないから、やりすごそうとすると、運転手がなにげない感じで、ひょいと財布をとり出す。

お金を渡した運転手は、その子どもから品物を受け取らなかったそうです。

(引用)
子どもはちょっとにっこりするが、ありがとうともいわず、人ごみにきえていく。

イスラム教の世界では、弱者に対して手をさしのべることが義務とされているのです。

(5)巡礼

聖地のメッカ(下図の1番)を訪れることを巡礼といいます。
 (下図は世界史の窓から引用。)
メッカ

巡礼は五行のうちのひとつですが、義務ではありません。
当然、信者は、一生に一度はメッカを訪れてみたいとの願望をもっています。
巡礼には、大巡礼と小巡礼の二つがあります。
大巡礼は、暦(こよみ)の最後の月である「巡礼月」の、7日から10日にかけておこなうものです。
この日以外のものは、小巡礼と呼ばれます。

メッカへやってきた信者は、カーバ神殿に集まります。

 (下図はSaudiTravellerから引用。)
カーバ神殿

(下図はウィキペディアから引用。)
カーバ神殿

上図の①は、「カーバの黒石」と呼ばれる石です。
神殿の壁にはめ込んであります。

 (下図はだめ日記から引用。)
カーバの黒石
いん石のようです。
この石が、アッラー(神)の指先、とされています。

 (下図は翻訳家 山岡朋子ファンクラブ初代会長の日記から引用。)
マルワとサファー

巡礼者はまず、タワーフ(TAVAF)と呼ばれる儀式をおこないます。
これはカーバ神殿を左回りで7周するものです。
1周するごとに、カーバの黒石にふれなければなりません。

次に、マルワ(MARWA)とサファー(SAFA)という二つの丘を三往復半します。
これをサアイ(SAEE)いいます。

信者の中にはこの二つの行為を数十回もくりかえす者がいるようです。

いずれにせよ、巡礼を終えて帰国した者は、尊敬の念をもって遇せられます。

話題は変わります。
当ホームページに、新しいコーナーを設けました。
「香西咲さんの活動状況」です。

香西咲さんがついに封印をとかれました。
週刊大衆に登場です。
雑誌の登場を嚆矢(こうし)として、ここから香西咲さんの快進撃がはじまります。

先ほどブログのほうも拝見させていただきました。
更新が早いので驚きました。
香西咲さんの文章を読むと、爽やか気分になります。
文章は、書き手を映し出す鏡です。
真摯です。
香西咲さんの誠実な人柄ががつたわってきます。



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香西咲さんに紹介したい歴史のエピソード ~イスラム教(断食)

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昨日は、イスラム教の「五行」の中の、信仰告白と礼拝についてふれました。
本日は断食について書いてみます。

五行

(3)断食(だんじき)

信者は毎年、1か月間、断食をします。
これは、ラマダーン(断食月)と呼ばれる月におこなわれます。
イスラム教の国の暦(こよみ)は、日本などが用いている太陽暦ではありません。
太陰暦です。
そのため、断食をおこなう時期が毎年、ずれていきます。

昨日も引用しました。
こちらの記事(カシオの「イスラム教徒向け腕時計」、大ヒットの背景に意外な事情2(2014年12月5日))を読むと、太陰暦の仕組みが理解できます。

(引用)
■また、イスラム暦(ヒジュラ暦)についても説明が必要だろう。
イスラム暦は太陰暦で、我々が普段使っている西洋の暦(太陽暦)とは異なる。
イスラム暦では月齢に合わせて月を数えるため、1年は約354日
そのため太陽暦と毎年約11日ずつずれていくことになる。

■上述のようにイスラム暦と太陽暦は毎年約11日ずつずれていくため、年によってはラマダンが真夏だったり真冬だったりすることになる。
(略)。
簡単な操作でイスラム暦を調べることができるPRAYER COMPASSは、こういったニーズにも応える腕時計なのである。

太陰暦は、月の動きを基準とした暦です。
1か月は、29日と半日です。
つまり、29.5日、です。
このため、29日の月と、30日の月を設けました。
29.5日に、12か月をかけますと、354日となります。
1年は354日です。
太陽暦よりも11日ほど短いということになります。

断食は、日の出から日没まで、おこなわれます。
太陽の出ている時間帯は、何も口にしません。
水もだめです。
つばを飲みこむこともいけない、と考えるひともいるそうです。

日が沈むと、人々は、食事を開始します。
親戚や友人同士で集まり、パーティーに発展することもめずらしくありません。
これが1か月もの間つづきます。
断食とは、信者にとって、一種のお祭りのようなものであるといえるでしょう。

片倉ともこ著「イスラームの日常生活」(岩波新書刊)より引用。

断食月第一日目の朝刊はどれもみな一面のトップに、「おめでとう! きょうはラマダン第一日目」と、おおきく書きたてる。

まるで日本の正月です。
お餅に該当する食べ物もあるみたいです。

片倉ともこ著「イスラームの日常生活」(岩波新書刊)より引用。

(略)、断食月には、特別の食べものがある。
(略)アラビア半島の多くのところでは、サンブーサとよばれるものを食べる。
三角形のぎょうざの皮のようなもののなかにチーズとひき肉を包みこんで、油で揚げたものである。

 (下図はクックパッドから引用。)
サンブーサ

また、断食月のときだけに食べる特別のお菓子も多数存在しているようです。
 (下図はyoukoba99から引用。)
アターエフ

youkoba99から引用。

ラマダン中にしか見かけないお菓子もあります。
それが「アターエフ」です。
中身はミルク・クリームやナッツ&レーズン等です。

片倉ともこ著「イスラームの日常生活」(岩波新書刊)より引用。

「つい食べすぎちゃって、断食月には太っちゃうんだよ」とこぼす人もいる。

断食月がおわりに近づくと、「この楽しかったラマダンがもうおわってしまうのか。もっともっと長くつづいてほしいと思う」という人も意外に多い。

なかなか楽しそうなイベントです。
明日は喜捨と巡礼についてみてみたいと思います。

話は変わります。
ゲーテのことばを二つご紹介します。

(高橋健二 編訳「ゲーテ格言集」新潮社刊より引用。)

有為な人間は、すぐに外面から内面へ向かって自己を教養する。
(「ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代」から)

内面のものを熱望する者は
すでに偉大で富んでいる。

(「エピメニデスの目ざめ」から)



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香西咲さんに紹介したい歴史のエピソード ~イスラム教(禁忌と礼拝)

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本日もイスラム教について書いてみます。
昨日のブログで、禁忌(きんき)についてふれました。
信者(ムスリム)は豚肉と酒を口にしません。
「美味しんぼ」(作・雁屋哲 画・花咲アキラ 小学館刊)の中に、その理由が出てきます。

(第55巻「まり子の晩餐会 中編」より引用。)
■豚肉なんてとんでもない!
イスラム教では豚は汚れた動物とされていて、食べることは禁忌とされています。

■イスラム教徒の豚肉に対する禁忌は徹底していて、日本にいるイスラム教徒は、ラーメンでさえも豚骨でダシをとったものは食べないそうだ。

「美味しんぼ」の中には書かれていませんけれども、当時、豚肉が原因と思われる病気がアラビア半島で流行しました。
このため、豚は不潔な動物、となったようです。

(第55巻「まり子の晩餐会 中編」より引用。)
■イスラムの聖典、「コーラン」では、酒も禁止しているぜ。
酒は人々の間に敵意と憎悪をあおり立て、神を忘れさせ、礼拝を忘れさせることを仕向けるための悪の業だから、きっぱりとやめろとさ。

酒をのめば、神や礼拝を忘れてしまうようです。
やはり酒はすばらしいのみものです。

本日はさらに、「六信」と「五行」についてみてみます。

六信

信者は以下の6つを信じなければなりません。

・神(アッラー)
・天使
・啓典(コーラン)
・預言者(ムハンマド)
・来世・・・・・・天国か地獄のことです。
・天命(予定)

イスラム教の世界にも天使がいるとは。
意外です。

五行

信者には、以下の5つの行いが義務づけられています。

・信仰告白
・礼拝
・断食
・喜捨
・巡礼

(1)信仰告白

日々のお祈りをするさいに、
「アッラーの他に神はなく、ムハンマドは神の使徒なり」
ととなえなければなりません。

(2)礼拝

お祈りです。
一日5回おこないます。
開始の時刻は、
夜明け前、
正午、
午後、
日没後、
夜、
となっています。

「Business Media 誠」に興味深い記事が載っていました。
2012年にカシオは、イスラム教徒(ムスリム)向けの腕時計を発売しました。
「PRAYER COMPASS」といいます。
これが売れているそうです。

カシオの「イスラム教徒向け腕時計」、大ヒットの背景に意外な事情2(2014年12月5日)より引用。

■PRAYER COMPASSの一番重要な機能は、いつお祈りしたら良いかを知らせることにある。
ムスリム(イスラム教徒)は、1日5回、以下のタイミングで礼拝を行う。
(略)。
 ポイントは、これが時間ではなく、太陽の位置(角度)で決まるという点。
夜明け前の礼拝は地平線より太陽が上にくる前に行わなくてはいけないし、日没の礼拝は地平線の下に太陽が沈んだタイミングで行う。
つまり、自分がいる場所の緯度経度や、季節によってお祈りの時間は変わってくるのだ。

■PRAYER COMPASSには、太陽の位置からお祈りの時間を算出する機能が付いており、自分がいる都市を選んでおくと(略)、何時何分に礼拝をしたらいいか教えてくれる。

ものすごい機能です。
ちなみに礼拝は、次の要領でおこなわれます。

 (下図は、M YASUDAのブログより引用。)
イスラム教の礼拝
簡単に説明します。
以下は、片倉ともこ著「イスラームの日常生活」(岩波新書刊)を参考にしました。

① これから礼拝をする、と心に決めます。
② 開いた両手を耳のところへもっていき、「神は偉大なり」ととなえます。
—————————————————————–
③ からだの前で両手をくみます。
④ 腰をまげて、「神は偉大なり」ととなえます。
⑤ からだをもとにもどします。
⑥ 「神は偉大なり」ととなえながら、ひれふします。
⑦ 顔をあげます。
⑧ 「神は偉大なり」ととなえながら、ひれふします。

 ちなみに、夜明け前の祈りのときには、再び③から⑧までの動作をおこなってから、次の⑨に進みます。
  正午に祈る場合は、③から⑧までの動作を4回繰り返します。
—————————————————————–
⑨ うつむき、神をたたえます。
⑩ 顔を正面に向けて、「アッラーの他に神はなく、ムハンマドは神の使徒なり」ととなえ、右手の人差し指を伸ばします。これには、神は唯一、という意味がこめられています。
⑪⑫ 「アッサラーム・アライクム(あなたの上に平安を)」ととなえながら、右、左の順で首を振ります。
イスラム教の礼拝

礼拝は、聖地であるメッカの方向を向いておこなわなければなりません。
このことに関しても、PRAYER COMPASSが応えてくれます。

カシオの「イスラム教徒向け腕時計」、大ヒットの背景に意外な事情3(2014年12月5日)より引用。

お祈りをする方角を調べるのも簡単で、時計を水平にし、右上の「QIBLAボタン」を押すだけ。
(略)。
ボタンを押すと秒針がいったん12時の方向を向き、その後スルスルと動いてメッカ・カーバ神殿の方向を向いて20秒間止まる。

カシオの技術は異彩を放っています。
PRAYER COMPASSですけれども、現在のところ、日本での販売予定はないとのことです。

それにしても、礼拝は大変です。
かなりの時間と労力を要します。
片倉ともこ著「イスラームの日常生活」(岩波新書刊)の中に、興味深いことが書かれておりますので、引用します。

■(略)、礼拝において、かれらは、地面にひれふしてお辞儀をする行為を何回もくりかえす。
おでこを地にすりつけるので、ペンだこやマージャンだこならぬ「祈りだこ」が、ひたいの中央にできている人も多い。

■祈りは、身体や精神の健康管理をする役割も、はたしている。
(略)。
こうやってからだを動かすと、その日のからだの調子がわかるという。

ストレッチの代わりになるかもしれません。
明日は、断食、喜捨、巡礼についてみてみたいと思います。



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