香西咲さんを勝手に応援するサイトの管理人の「焼酎好き」です。よろしくお願いします。
昨日のつづきです。
アテネの活躍によりペルシアは、西アジアへ退きました。
その後、戦争の再開に備えて、数百のポリスがデロス同盟を結成しました。
組織の牽引者は、アテネです。
各ポリスから供出される軍資金は、デロス島の金庫の中に保管されました。
ペルシア戦争のあと、アテネの指導者のペリクレス将軍は、二つのことに着手しました。
一つ目は、完全民主政の実施です。
これにより財産のない平民も政治に参加できることとなりました。
二つ目は、豪壮な神殿の建設です。
過去のブログでもふれました。
各ポリスにはそれぞれ、小高い丘(アクロポリス)があります。
(下図は、タクミな話より引用。)
丘は戦争のさいに、とりでとして機能します。
敵に追いつめられたときは、ここが最後の拠点となります。
多くのポリスはこの丘に、神殿も設置しました。
現在、アテネでは、大理石でつくられた神殿が威容を誇っています。
パルテノン神殿です。
(下図は、海外旅行・海外ツアーの楽しみ方より引用。)
この神殿はペリクレスの時代(B.C.443年~B.C.429年)につくられました。
当時、アテネの国家財政は行き詰まっていました。
ペルシアとの戦争によって支出が膨大となったためです。
逼迫(ひっぱく)しているときに新しい神殿を建てている余裕はありません。
ペリクレスはデロス同盟の資金を流用しました。
神殿はB.C.432年(今から2446年前)に完成します。
建物の中央には、戦いの女神であるアテナの像が屹立(きつりつ)しました。
高さは9mもあります。
材料には象牙と金が使われました。
(下図は、海外旅行・海外ツアーの楽しみ方より引用。アテナ女神像の想像図。)
残念ながらこの像は、465年に東ローマ帝国へ移設され、やがて破壊されました。
神殿自体も1687年に、貯蔵していた火薬が爆発して、大破しました。
(下図は、海外旅行・海外ツアーの楽しみ方より引用。)
当時パルテノン神殿をつくるために、あらゆる職人と工人が動員されたとの記録が残っています。
最高のものをつくりあげるために誰もが、矜持(きょうじ)をもって作業に従事したようです。
神殿の完成は、アテネ(下図の6番)のひとたちにとって、大きなよろこびでした。
当然、他のポリスは反感を持ちます。
自分たちのお金を使ったわけですから。
その筆頭がスパルタ(下図の7番)でした。
(下図は、世界史の窓より引用。)
スパルタはペロポネソス半島の各ポリスとともに、ペロポネソス同盟をつくります。
デロス同盟に対抗するためです。
次第にアテネとスパルタの対立が深刻になっていきます。
B.C.431年(今から2445年前)、両者との間で戦争がはじまります。
ペロポネソス戦争です。
これはデロス同盟とペロポネソス同盟の戦いでもあります。
戦闘は27年間もおこなわれました。
最終的にスパルタ側が勝利します。
アテネは破れます。
今度はスパルタがギリシアの覇権を握ります。
残念ながらこれは長続きしませんでした。
スパルタよりも強い国が台頭したからです。
テーベ(下図の8番)です。
(下図は、世界史の窓より引用。)
B.C.371年(今から2385年前)に、テーベ(上図の8番)とスパルタ(上図の7番)が激突します。
結果、テーベがスパルタを破ります。
以降、ギリシアの盟主は、テーベとなります。
ただ、相次ぐ戦乱によって、ギリシアは衰退してしていきます。
——————————————————–
かつてパルテノン神殿に据えられたアテナは、戦いの女神といわれています。
戦いといえば、ぼくは香西咲さんを連想します。
香西咲さんもいま、いろいろなものと戦っているのかもしれません。