香西咲さんの崇高さと、パスカルの「パンセ」

香西咲さんを勝手に応援するサイトの管理人の「焼酎好き」です。よろしくお願いします。

香西咲さんのTwitter(2014年10月17日)より引用。

偉人の方々の御言葉や数々の本は、
ほんの28年足らずしか生きてない小娘が日常生活で知る筈も無いような、
人生の教訓を惜しみ無く伝えてくださるm(._.)m
だから本が好きです。

ぼくも先達から学ぶことは大切であると考えます。
昔のひとも、いまのかたも、同じようなことで悩んだり苦しんでいます。
先達はそのような難問とどのように対峙してきたのでしょうか。
過去の人たちの知恵を借りない手はありません。

B.C.334年に、ギリシア人のアレクサンドロスが、東方遠征へ出発しました。
以降、オリエント(西アジア+エジプト)の地に、ギリシア風の文化が広がりました。
ヘレニズム文化といいます。
約300年間栄えました。
この時代、エジプトの首都のアレクサンドリアに、王立研究所がつくられました。
ムセイオンといいます。
ここで多くの学者が、自然科学の研究をしました。
たとえば、比重やてこの原理をとなえたアルキメデスが有名です。
エラトステネスは、地球の周囲を3万9700キロメートルと測定しました。
正しくは、4万70キロです。
いまから2000年以上も前のひとが現在の数値とほぼ変わらない計測をしたのには驚かされます。
当時の学者のレベルの高さがうかがえます。
エラトステネスは、地動説を主張しました。
地球は自転しながら太陽のまわりをまわっている、という考え方です。
B.C.30年、クレオパトラの死去によって、プトレマイオス朝エジプトは滅亡します。
ムセイオンは閉鎖されました。
やがて、地球は静止しており、太陽が地球のまわりをまわっているという天動説が人々の常識となっていきます。
王立研究所がなくなると、エラトステネスの地動説も完全に忘れ去られてしまったのです。
貴重な教訓です。
先達の知識も、後世に語り継がれていかなければ、失われてしまうのです。

(再掲)
偉人の方々の御言葉や数々の本は、
ほんの28年足らずしか生きてない小娘が日常生活で知る筈も無いような、
人生の教訓を惜しみ無く伝えてくださるm(._.)m
だから本が好きです。

香西咲さんのこのことばは崇高です。

昨日のブログでぼくは、自分自身の挫折についてふれました。
人生にはプラスとマイナスがあります。
常に良いことばかりがつづくとは限りません。
「驕(おご)る平家は久しからず」
という故事もあります。
広辞苑には、栄華を極めて勝手な振舞をする人は長くその身を保つことができない、と書かれています。
思い上がった挙動をするものは、長きに渡って栄えることがありません。
いずれ滅びます。
このように不遜なひとたちほどでもないにしても、人間には挫折がつきものです。
これをどのようにして乗り越えるかで人間の真の価値が決まります。
調子の良いときは何をやってもうまくいきます。
問題は、立ち行かなくなったときにどうするかです。
驕る平家は、滅びます。
ちなみに、ぼくは滅びません。
それは、人間とはどのようなものなのかを知っているからです。
パスカルから教わりました。

パスカル(1623年~1662年)は、フランスの哲学者です。
「人間はひとくきの葦(あし)にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦(あし)である」
とのことばがあまりにも有名です。
これをはじめて聞いたときぼくは、特に感じるものがありませんでした。

のちに、パスカルの散文を収録した「パンセ」の存在を知りました。
引用します。

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(引用)
人間の偉大さは、人間が自分の惨め(みじ)なことを知っている点で偉大である。
樹木は自分の惨めなことを知らない。
だから、自分の惨めなことを知るのは惨めであることであるが、人間が惨めであることを知るのは、偉大であることなのである。

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誰だって、自分が惨めな存在であるとは思いたくありません。
知りたくもありません。
それをパスカルは、自分が「惨めであることを知るのは、偉大であることなのである」といいます。
次のような文章もあります。

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(引用)
人間の偉大さ。
人間の偉大さは、その惨めさからさえ引き出されるほどに明白である。
なぜならわれわれは、獣においては自然なことを、人間においては惨めさと呼ぶからである。
そこで、人間の本性が今日では獣のそれと似ている以上、人間は、かっては彼にとって 固有なものであったもっと善い本性から、堕ちたのであるということを認めるのである。

なぜなら、位を奪われた王でないかぎり、だれがいったい王でないことを不幸だと思うだろう。

パウルス=エミリウス(B.C.182年と168年とにローマの執政官となった将軍)がもはや 執政官(大統領)でないことを、人は気の毒だと思っただろうか。
反対に、だれもかれも、かって彼が執政官であったことをしあわせな人だと思ったのである。
なぜなら、彼の身分は、常に執政官であることはなかったからである。

ところが、人は、ペルセウス (B.C.168年にパウルス=エミリウスの軍に敗れたマケドニア最後の王)が王でなくなったのを、非常に不幸なことだと思った。
なぜなら、彼の身分は常に王であることだったので、彼がおめおめと生きているのを不思議に思ったくらいだからである。

自分に口が一つしかないからといって、だれが不幸だと思うだろう。
そして、目が一つしかないことを、だれが不幸と思わないでいられようか。
目が三つないといって悲しむ気になった人は、おそらく今までにないだろうが、自分に目が一つもなかったなら、なんとしても慰められることはないだろう。

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執政官とは、大統領のようなものです。
任期は1年です。
パウルス=エミリウスは執政官に2回選ばれました。
執政官をやめてからは、普通のひととなりました。
人々は、パウルス=エミリウスが気の毒とは思いませんでした。
執政官を経験することができた幸せなひと、と感じました。

王位を剥奪された王に対して、ひとびとは、大変不幸なひと、と思いました。
それは、「彼の身分は常に王であることだった」からです。

ペルセウス王は終生、王位が保証されていました。
位を失うなどという惨めなことは、考えたことがなかったでしょう。
パスカルはいいます。
「人間の偉大さは、人間が自分の惨めなことを知っている点で偉大である」

「パンセ」には、次のようなことも書かれています。

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(引用)
なぜなら、人はいっそう高いところから堕ちれば堕ちただけ、それだけもっと惨めだからである。
そして、他の人たちの場合は、 その逆である。
(略)。
たしかに人間は、光を多く持つにつれて、 人間のうちに、偉大さも惨めさも見いだすものである。
要するに、人間は自分が惨めであることを知っている。
だから、 彼は惨めである。
なぜなら、事実そうなのだから。
だが、彼は、実に偉大である。
なぜなら惨めであることを知っているから。

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以上、挫折に関してのべてみました。
それでは、挫折からどう立ち直ればいいのでしょうか。
ぼくは香西咲さんのこのことばに感銘を受けました。

香西咲さんのTwitter(2014年6月18日)より引用。

こんなに成長を実感出来るのって、
生まれて初めてかもしれないです…

やっぱり
“ピンチはチャンス”

チャンスはピンチの影に潜んで
そぉっとやってくるものなんですね




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