香西咲さんに紹介したい歴史のエピソード ~モーツアルトのトルコ行進曲

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本日は最初に、オスマン帝国についてご紹介をしたいと思います。
かつて成立していたこの国は、トルコ、または、オスマン=トルコとも呼ばれています。
1299年、トルコ人のオスマン族によって建てられました。
イスラム教の国です。
1922年までの約600年間、オリエント(西アジア+エジプト)から東ヨーロッパにかけて栄えました。

(地図は世界史の窓から引用。)
オスマン帝国
地図上の「A帝国」は、オスマン帝国をあらわしています。
1299年に、濃いオレンジ色(14世紀初頭のA帝国)のところに小さな国を建てました。
地図上の1番は、首都のブルサです。

オスマン帝国はやがて、ヨーロッパへ進出していきます。
地図上のオレンジ色の部分(15世紀中頃のA帝国)をみてもおわかりの通り、バルカン半島の大半を勢力下に治めました。
このときの皇帝は、ムラト1世(在位1359年~1389年)です。
コンスタンティノープル(現在のイスタンブル)は手に入れることができませんでした。

(※現在の世界地図。yahoo!地図から引用)
イスタンブール1
イスタンブール2

それまでバルカン半島を支配していたのは、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)です。

(※現在の世界地図。地図はヨーロッパの風景から引用。)
バルカン半島
ビザンツ帝国は領土の大半を失います。
首都のコンスタンティノープル(現在のイスタンブル)だけが残り、周囲をオスマン帝国に囲まれていまいます。

(※現在の世界地図。yahoo!地図から引用)
イスタンブール3
バルカン半島を占領したムラト1世は、そこに住んでいた白人の少年を集めて、軍隊をつくりました。
イエニチェリと呼ばれます。
やがて最強の部隊となりました。
移動は軍楽隊の演奏とともにおこないます。
イエニチェリの音楽が聞こえてくると、人々は、仕事をやめて家に隠れたといわれています。

1453年、オスマン帝国は、コンスタンティノープルを陥落させることに成功します。
このとき、1500年以上もの歴史があったビザンツ帝国(東ローマ帝国)は滅びました。

この後、オスマン帝国は、首都をコンスタンティノープルに移します。
コンスタンティノープルはやがて、イスタンブルとよばれるようになります。
このあともオスマン帝国の拡大がつづきます。

1529年には、オーストリアの都のウィーンを包囲します。

(地図は世界史の窓から引用。)
オスマン帝国
ウィーンは地図上の4番です。
「第一次ウィーン包囲」といいます。
最後は、攻め落とすことができずに、撤退します。
ヨーロッパのひとたちに恐怖心を植えつけた出来事でした。

オスマン帝国はその後、北アフリカの地域を支配下に入れます。
地図上の黄色の部分(A帝国の最大領域)が、オスマン帝国の最大領域です。

1683年、オスマン帝国はふたたび、オーストリアのウィーンを攻撃します。
「第二次ウィーン包囲」といいます。
オーストリア軍の守りは固く、打ち破ることはできませんでした。

この出来事から約100年後のことです。
ウィーンで音楽活動をしていたモーツァルトが、「トルコ行進曲」という曲をつくりました。
モーツアルト
モーツァルトにつきましては、昨日のブログでもふれました。
極貧のなかで死んでいった音楽家です。
ウィーン包囲から100年経って、モーツァルトはなぜ「トルコ行進曲」を作ったのでしょうか。

(YouTubeより引用)

ウィーン包囲のとき、オスマン帝国軍のイエニチェリは、戦闘の背後で激しい音楽を奏でました。
市民にとっては脅威であったに違いありません。
モーツァルトの曲からはこのような怯懦(きょうだ)の情が伝わってきません。
軽やかな旋律です。
郷愁さえも感じられます。
「第二次ウィーン包囲」の失敗を期にして、オスマン帝国は徐々に衰退していきます。
侵略の脅威はなくなりました。
100年後のウイーンのひとたちにとって、「第二次ウィーン包囲」は、懐かしい思い出へと変化したのかもしれません。

つらかった思い出がいつの日か追憶へと変わる。
人生とはそのようなものかもしれません。
香西咲さんにもいつか、そのような日が訪れると思います。



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