月別アーカイブ: 2014年11月

香西咲さんに紹介したい歴史のエピソード ~アテネの民主政

香西咲さんを勝手に応援するサイトの管理人の「焼酎好き」です。よろしくお願いします。

先週の火曜日から、古代ギリシアのポリスに関して、ご紹介をしております。
本日は、アテネ(下図の番)の民主政についてふれてみたいと思います。

 (下図は、世界史の窓より引用。)
ギリシアのポリス(アテネとスパルタ)

アテネは、世界ではじめて、直接民主政治をおこなったポリスとして知られています。

過日のブログでもふれました。
アテネの民主政は、ペリクレスという指導者の時代(B.C.443年~B.C.429年)に完成しました。
この人物の役職は将軍です。
当時は実質上、将軍が国の最高責任者となっていました。

 (※下図は、自作したものです。)
ポリスが栄えた時代

このとき、日本は、弥生時代です。
アテネの民度の高さには驚嘆させらます。
18歳以上の男子は直接、政治に参加することができました。

人々はアゴラ(広場)に集まって、総会を開きました。

 (下図は、タクミな話より引用。)
ポリス アゴラ

この総会のことを「民会」といいます。
民会は年に、40回程度ひらかれました。
一週間に1回の割合です。

当時のアテネの社会構成は、
奴隷が11万人で、
市民は18万人
となっておりました。

もちろん奴隷には、参政権がありません。
市民についても、参加資格があったのは、18歳以上の男子だけです。
女性は除外されておりました。

有権者は4万です。
すべてのひとが民会に参加することはありませんでした。
毎回、6000人程度の出席でした。
このひとたちがアゴラ(広場)で討論を繰り広げました。

自分の思うように政治を動かすためには、民会で人々の心をつかむことが肝要です。
人々は、はなしかたの工夫をおこないました。
アゴラは広いです。
まずは、大きな声を出すことが求められます。
次に、
美しい声で、
きれいなことばで、
上手に語らないと、
支持は集まりません。

アテネのひとたちは一般的に、雄弁な人物に対してなびく傾向がありました。
レスリングの試合で、相手にかみついた男がいます。
反則です。
観客は、
「女のようにかみつくなんて」
と非難しました。
男はすぐに切り返しました。
「いや、ライオンのようにかんだのだ」
と。
人物は感服しました。

民会に集うひとたちは、雄弁にはなすためのテクニックをみがきました。
やがて、このような技術を有償で教えるひとたちが登場します。
ソフィスト(詭弁家)とよばれるひとたちです。
アテネでは、プロタゴラスなど、多くのひとたちが活躍しました。
そのなかの一人であるゴルギアスは、次のように語っています。

自分たちが教えるのは、
裁判では陪審員を、
評議会では評議員を、
民会では出席者を、
そのほかのどんな政治的集まりでも、
ことばで人々を納得させることができる雄弁術である。

この雄弁術こそ、本当にもっとも良いものである。
つまりそれは人々自身に自由をもたらし、また各人が自分のポリスで、他の人を支配できるみなもとになるものだ。

人々はこぞって、ソフィストから雄弁術を学びました。
当時好まれたもののひとつに、ゼノンの逆説のなかにでてくる「アキレスと亀」があります。
次のようなはなしです。

俊足のアキレスが、鈍足の亀を追いかけました。
アキレスが、はじめに亀のいたところに追いついたときには、亀はわずかに前進しています。
ふたたびアキレスが追いかけて、亀がいたところに追いついたときには、さらに亀はわずかに前進しています。
これを繰り返すかぎり、アキレスは亀に追いつくことはできません。

雄弁術のなかには、詭弁も含まれています。
詭弁とは、こじつけのことです。
道理に合わないことを強引に正当化しようとする弁論です。

明日は、ギリシアではありませんけれども、詭弁のわかりやすい例がありますので、ご紹介したいと思います。



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オリンピア競技(その2) ~キュニカと、香西咲さん

香西咲さんを勝手に応援するサイトの管理人の「焼酎好き」です。よろしくお願いします。

本日はまず、昨日の問に対する解答からしていきたいと思います。

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問1 もっとも古い競技は何でしょうか?
   (現在のオリンピックでもおこなわれています。)


ランニング(マラソン)です。

その後、
レスリング、
幅跳び、
槍投げ、
円盤投げ、
が追加されました。

この5つの競技を併せて、「五種競技」といいます。
B.C.7世紀の半ばには、競馬や戦車競技が加わります。
ちなみに戦車とは、馬車のことです。

 (下図は、Wikipediaより引用。戦車。)
ギリシア戦車競技
種目は、時代が経つにつれて増えていきます。
最盛期には20種類以上の競技が催されました。
数は23種目とも、24種目ともいわれています。
スポーツだけではなく、演説、詩の朗誦(ろうしょう)、絵画などの芸術コンクールも実施されました。

競技は当初、1日で終了していました。
種目が増えるにつれて、開催期間も長くなっていきます。
おおむね8月6日から9月19日までの長期にわたっておこなわれました。

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問2 優勝したひとには、木の枝でつくられた冠が贈られました。
   何の木を用いたのでしょうか?


オリーブです。

 (下図は、気分は古代ギリシャ?より引用。オリーブ冠。)
オリーブ冠
オリンピアのゼウス神殿の近くには、野生のオリーブがはえています。
競技の勝利者には、この木の枝でつくった冠があたえられました。

 (下図は、エクスペディアより引用。ゼウス神殿。)
ゼウス神殿
オリーブは金(きん)の鎌(カマ)で切り取られました。
これを少年が冠にします。

勝利者にあたえられた商品はこれだけです。
このことはいまでも、アマチュア精神の美しい象徴、として高く評価されています。
ただ、勝者は、自分のポリスへ帰ると、饗応(きょうおう)を受けました。
たとえばアテネの場合は、豪華なレストランで一生、食事をすることができました。
もちろん代金は無料です。
他に、賞金もでましたし、銅像もつくってくれました。

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問3 選手はどのような服装で競技にのぞんだのでしょうか?


競技に参加できるのは、男性のみです。
初期のころ、選手は、腰に布をまいていました。

B.C.720年(いまから2734年前)に、様相が変わります。
オルシッポスという選手が短距離走に出場しました。
この人物は途中で、腰布を落としてしまいました。
拾っている余裕はありません。
そのまま走り、1位でゴールインしました。
このことを知った選手たちは、腰に布をまかないで走ったほうが有利、と思うようになりました。
以降、参加者の間で、全裸となるものが増えていきました。

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問4 見物人は男性に限られていました。
   その理由は?


選手は全員、男性です。
戦車競技に参加する者以外は、全裸であったからです。
例外はありました。
女神官のような特別の身分の者は、この限りでありませんでした。
観戦をすることができました。

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問5 また、競技を観戦するひとたちには、ある条件がかせられていました。
   その条件とは何でしょうか?


全裸での観戦です。

あるとき、カリパティラという母親が、男装して息子の試合をみていました。
自分の子供が優勝しました。
母親はうれしさのあまり、我が子のところへ駆け寄ろうとしました。

 (下図は、Wikipediaより引用。当時の男性の服装。)
古代ギリシア服装(キトン)
柵をまたぎました。
このとき、女性であることが露見してしまいました。
これ以降、見物人も全裸となりました。

オリンピア競技の主催ポリスであるエリスは、つぎのようなきまりを定めていました。
競技場で女性を発見した場合は、切り立つ崖の連なるテュパイオン山から突き落とす、と。

カリパティラは、罰を受けませんでした。
父の代から優勝者を輩出している名家であったためです。

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以上、男性の祭典であるオリンピア競技についてご紹介をしました。
女性にはこのような愉しみがなかったのか、といいますと、そうではありません。
オリンピアでは別に、女性のためのヘライヤ祭をおこなっていました。
こちらも、4年に1度の開催です。
女性だけが参加するスポーツ大会です。
種目は徒競走のみです。
年齢別に、3回にわけて競われました。
優勝者にはオリーブの冠が授けられました。

ギリシア人は皆、スポーツを好みました。
普段とは別に、神々の祭りのさいや、葬式が終わったあとにも、おこなわれました。
神々や死者も、これをみてよろこんでくれると思ったからです。

ギリシアには大きな競技会が4つありました。
オリンピア(下図の13番)、デルフォイ(下図の12番)、コリント(下図の番)、ネメアでおこなわれるものです。

 (下図は、世界史の窓より引用。)
ギリシアのポリス(アテネとスパルタ)
それぞれ、4年ごとに開催されました。
つまり、毎年どこかで、大会がおこなわれていたことになります。
もちろん一番有名なのは、オリンピア競技です。

先ほど、女性はオリンピア競技に参加できない、と記しました。
例外もあります。
B.C.442年(いまから2456年前)に、スパルタの女性が戦車競技に出場しました。
女性は、ギリシア中に名をとどろかせている名馬の持ち主でした。
その馬を御せるのは、この女性だけです。
このため女性は、特例、として参加をゆるされました。
試合で女性は優勝しました。
記念碑には次のようなことばが刻まれています。

私、キュニカは、(略)優勝の冠をいただいた最初のギリシア女

ぼくはいまこれを書いていて、香西咲さんはキュニカさんのようなかたであると思いました。
困難なことに立ち向かうその姿勢が重なりました。
香西咲元気な画像



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香西咲さんに紹介したい歴史のエピソード ~オリンピア競技

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本日もギリシアのポリスについてご紹介をします。
これは何の木かおわかりでしょうか。

 (下図は、ギリシャの光あふれる暮らしと旅より引用。)
オリーブ

答は、オリーブです。
ギリシアの特産物です。
当地では古くから、品質の良いものが大量に実りました。
直接食したり、燈火用の油として用いたり、さらには皮膚を保湿するための油として使われました。
各ポリスは、これをエジプトなどに輸出して、利益をあげました。
金銭的にうるおうにつれて、人口が増えてきます。
ギリシアの国土は狭隘(きょうあい)です。
日本でたとえますと、九州と北海道の中間ぐらいの面積です。
山脈も縦横に走っています。
徐々に住む場所がなくなっていきます。
必然的に各ポリスは、土地の奪い合いをするようになります。
こうして各地で、交戦が繰り広げられました。

戦争は絶え間なくおこなわれました。
ポリス間の仲はよくありません。
それでも、自分たちは皆、同じギリシア人である、との意識はもっていました。
たとえば、ギリシア全土のひとたちが参加する祭りが多数存在しました。
代表的なのが、4年に1度、オリンピア(下図の13番)というポリスで開催されるスポーツの祭典です。
いわゆるオリンピックです。

 (下図は、世界史の窓より引用。)
ギリシアのポリス(アテネとスパルタ)

ちなみに、この競技を主催したのは、エリスという小さなポリスです。

オリンピア競技(オリンピック)は、B.C.776年(いまから2790年前)からはじまりました。
4年に1度、オリンピアでおこなわれるゼウス神の祭りに合わせておこなわれました。

B.C.27年(いまから2041年前)にギリシア(当時はマケドニアの一地方)は、ローマ帝国の支配を受けます。
ローマは宗教に対して寛容です。
ギリシア人が信じている神々に対して特に制限を加えることはありませんでした。
このため、ギリシア人は、オリンピア競技を継続することができました。
ちなみにローマ人もこの競技に参加しました。

379年にテオドシウスが、ローマの新しい皇帝となります。
この皇帝は翌年の380年に、キリスト教を国の宗教とします。
392年には、キリスト教以外の宗教の信仰を禁止します。
1年後の393年(いまから1621年前)は、オリンピア競技の年でした。
この競技は、ゼウス神に捧げる儀式、という側面をもっています。
宗教行事でもあります。
このため、この年の開催を最後にして、オリンピア競技は禁止となりました。
競技場も破壊されました。
それから1503年後の1896年、フランスのクーベルタンの提唱によって近代オリンピックがはじまりました。
第1回目の開催地は、ギリシアのアテネでした。
13の国が参加しております。

古代ギリシア人にとって、オリンピア競技は平和の象徴でした。
競技は1か月以上おこなわれます。
競技中と、その前後の1か月間は、ポリス間の戦争が一斉に休止となりました。
上述したように、この競技は、神に捧げる儀式でもあります。
このため各ポリスは、主催者側から出される休戦のお告げを遵守しました。

近代オリンピックは、この古代オリンピックを理想として始められました。
「平和の祭典」といっておりますけれども、実際には地球のどこかで戦争がおこなわれています。
この点は古代ギリシアに劣ります。

ここでまた、問題を出させていただきます。
オリンピア競技についてです。

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問1 もっとも古い競技は何でしょうか?
   (現在のオリンピックでもおこなわれています。)

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問2 優勝したひとには、木の枝でつくられた冠が贈られました。
   何の木を用いたのでしょうか?

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問3 選手はどのような服装で競技にのぞんだのでしょうか?

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問4 見物人は男性に限られていました。
   その理由は?

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問5 また、競技を観戦するひとたちには、ある条件がかせられていました。
   その条件とは何でしょうか? 

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答は明日のブログでご紹介します。



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香西咲さんに紹介したい歴史のエピソード ~スパルタ教育(その3)

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昨日のつづきです。

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問6 合宿所に入っている少年は、13歳になると1年間、あることをさせられました。
   それは何でしょうか?

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おわかりになられたでしょうか。
は、武者修行です。

少年たちは13歳になりますと、集団で、スパルタ国内をめぐらされました。
あらかじめ活動する時間が決められています。
昼の間は身を隠していました。
夜になると、いっせいに練り歩きます。
合宿所から渡されるのは、1本の短剣のみです。
食料は奴隷から奪え、と厳命されます。

農村には奴隷たちが住んでいます。
スパルタの奴隷は、家族を構成することが許されていました。
農機具や、収穫物の一部を自分のものとすることもできました。
修行者たちは夜に奴隷の家へ押し入って、食料を強奪しました。
現場を目撃された場合は、その奴隷を無条件で殺害しても良い、とされていました。
この制度の狙いは、奴隷に対して普段から、恐怖心をもたせておくことです。
反抗心をそぎとるためにおこなわれました。

一昨日のブログでも書きました。
スパルタの社会構成は、
市民が2万5000人
奴隷が20万人
です。
圧倒的に奴隷の数がまさります。

奴隷たちは時宜(じぎ)をみては反乱を起こそうと考えていました。
もしも外敵が侵攻してきた場合にこのようなことが起きますと、スパルタは内部から崩壊してしまいます。
また、スパルタ軍が外国との戦争で国を空けているときも、反乱の好機です。
このようなことを避けるためにも、女子も含めて、スパルタ人は無敵である、ということを植え付けておく必要があったのです。

ちなみに、スパルタや他のポリスに存在した奴隷は、ギリシア世界の周辺地域から連れてこられました。

 (下図は、自作です。ピンク色のギリシアと、青く塗った小アジアのイオニア地方が、ギリシア世界です。)
イオニア地方

黒海沿岸や、小アジア(トルコ)の奥地が、豊富な供給源でした。

 (下図は、世界史の窓より引用。)
小アジア、黒海

奴隷商人の手を経て、各ポリスに供給されました。

奴隷は、スパルタ人よりも、体力や精神面で劣っている必要がありました。
強くなりすぎた奴隷は殺されました。
持ち主の主人も罰せられました。
奴隷がその身分を忘れないようにと、ムチで打たれる年中行事もありました。

過去のブログで書きました。
イソップ物語を書いたアイソーポスも、あるポリスで奴隷として働いていました。
幼いころから二人の主人につかえていました。
やがて知恵と才能が認められて、奴隷の身分から解放されました。
この事例とは別に、主人に解放金を支払うことによって自由を獲得した奴隷も少なからず存在しました。

最後に、スパルタの特異性を象徴しているエピソードをご紹介します。
スパルタでは、年上の命令には絶対服従である、と教育されます。
ところが例外もありました。
あるとき、集会がありました。
会場は満席でした。
そこへ老人が入ってきました。
皆、この人物には子供がいない、ということを知っています。
誰も席をゆずりませんでした。
老人が若い男性の前に立って、声を荒げました。
「席をゆずれ」
男は立ちませんでした。
座ったままの姿勢で、ほくそ笑みました。
「あなたがわたしに席をゆずるような子供をもっていれば」
と。

はなしは変わります。
先ほど、香西咲さんのツイッターを拝見しました。
息をのみながら、文章と対峙しました。
検査の結果が良好であったと書かれています。
僥倖(ぎょうこう)感につつまれました。
このように晴れやかな気分となったのはいつ以来でしょうか。
久しぶりに胸のすく思いをしました。
心のなかで、
「やったー」
と叫びました。
しばらくの間ぼくは、愉悦に酔いしれていました。

こちらの写真は昨日、ツイッターで拝見しました。
香西咲オシャレな顔写真
香西咲ファッショナブルな全体写真
見た瞬間、圧倒されました。
「すごい」
と思いました。
ぼくは、すごい、というような陳腐な表現はしたくないのですが、これが偽らざる気持ちです。
他に適切なことばが思い浮かびません。
あらためて思いました。
この世の中で、香西咲さん以上に美しいかたはいない、と。
香西咲さんの美を凝集した写真集を出していただきたいです。

注 大きな画像は、香西咲さんのツイッターでご覧になることができます。)



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香西咲さんに紹介したい歴史のエピソード ~スパルタ教育(その2)

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昨日の問題はおわかりになられたでしょうか。
本日は、解答と解説をしてみたいと思います。

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問1 スパルタでは、生まれたばかりの赤ちゃんに対して、テストをします。
   強い子に育つかどうかをみきわめるためです。
   どのようなテストをおこなったのでしょうか?


赤ちゃんのからだをブドウ酒に浸します。
からだの弱い子供はひきつけをおこします。
その場合は不合格です。

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問2 上記のテストの結果、強い子に育たないと判定された赤ちゃんはどうなったのでしょうか?


山に捨てられました。
ちなみにこの行為はあまりにも非情ですので、別の解釈をする学者もいます。
からだの弱い赤ちゃんを山へ運ぶ行為は、一種の儀式であった、と。
虚弱児を土の上に置き、大地の力を吸わせた、というのですが、どうなのでしょうか。

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問3 男の子は6歳になると全員、あることをさせられました。
   それは何でしょうか?


集団生活です。
29歳まで、合宿所に入れられます。
目的は、窮乏に耐えることができるからだと精神力を養うことです。
普段は、戦争のような非常時を想定して、訓練がおこなわれました。
衣食住に関しては、必要最低限度のものしかあたえられません。
1年中、マント1枚で生活します。
寝具もありません。
川にはえている水草の穂をたくさんつんできて、そのなかに寝ました。
食事もわざと、不足がちに並べられます。
空腹にたえられない者は、他で盗みをして補うことが黙認されていました。
戦場では、当然の行為、だからです。
無条件で認められていたわけではありません。
盗みの現場をみられることは許されませんでした。

ある少年が、市民の家からキツネの子を窃取しました。
誰かにみつかってはまずいので、それをマントの下に隠しました。
ちょうどそのとき、向こうから大人がやってきました。
キツネの子に暴れられると、盗みが判明してしまいます。
少年はマントの上から強く押さえつけました。
キツネの子は苦しさのあまり、少年の腹を爪や歯でかきむしります。
少年は我慢をしました。
大人が通りすぎていきました。
それを確認してから、少年は倒れました。
大人が駆け寄ります。
致命傷でした。
やがて少年は息絶えました。

—————————————————————–
問4 男性だけでなく、女性もからだを鍛えました。
   女性の場合は、あるスポーツが奨励されました。   
   どのようなスポーツでしょうか?


すもう、円盤投げ、徒競走、などです。
ちなみに他のポリスの女性は、家庭内でつつましく生活をしていました。
ある外国人が、貴族の妻に対していいました。
「男を支配しているのは、あなたがたスパルタの女だけですね」
肯いた女性が笑みを浮かべました。
「本当の男を生むのも、わたしたちスパルタの女だけです」

—————————————————————–
問5 夫がひ弱だと、強い子供は生まれてきません。
   この場合、夫はどうするのでしょうか?


良い子供を得るために夫は、進んで立派な男をさがしました。

他のポリスのひとが、ゲラダスというスパルタ人の男性に質問をしました。
「スパルタでは不倫をする者に対して、どのような罰をあたえているのですか?」
ゲラダスが答えました。
「わが国で不倫をおこなうひとはいません。したがってそれを処罰するきまりもありません」
質問者がくいさがりました。
「それでも、もし万が一そういうひとがあらわれたらどうします?」
ゲラダスがつまらなそうな顔をしました。
「あなたに、川の水をすべて飲みこむ牛をあげます」
「そんな牛はいない」
「あなたがありえないことをいっているので、わたしもまねをしただけです」
とゲラダスは、横を向きました。

夫が認めた場合は、不倫にならない、とスパルタでは考えられていました。

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ここでまたひとつ、問題をださせていただきます。

問6 合宿所に入っている少年は、13歳になると1年間、あることをさせられました。
   それは何でしょうか?

答は明日のブログでご紹介をしたいと思います。

香西咲さんのブログ(おとこの娘~( ´▽`)ノ)より引用。

ワイン大好き~
ごはんもめっちゃ美味しかった~!

昨日はビールものまれたようです。
香西咲ビール
注 大きな画像は、香西咲さんのFacebookでご覧になることができます。)

何だか安心しました。
またぼくも近いうちに酒の話題を書いてみたいと思います。
それにしても香西咲さんは、ビールをのんでいる姿も美しいです。
来年はビールのコマーシャルに登場してほしいです。
この写真ですけれども、もうこれだけで宣伝用のポスターになってしまいます。
何だかビールがのみたくなってしまいました。



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香西咲さんに紹介したい歴史のエピソード ~スパルタ教育

香西咲さんを勝手に応援するサイトの管理人の「焼酎好き」です。よろしくお願いします。

今回は、ギリシアのポリス社会についてご紹介をします。
ポリスとは、都市国家のことです。
栄えた時代は、B.C.8世紀から、B.C.338年までです。
B.C.338年にすべてのポリスは、同じギリシア人の国であるマケドニアに支配されます。

 (※下図は、自作したものです。)
ポリスが栄えた時代

ちなみにポリスは、ギリシア本土の他に、トルコのイオニア地方にもつくられました。
全体で1500以上のポリスが成立しました。

 (※下図は、自作したものです。ピンクの部分がギリシア青色がイオニア地方です。)
イオニア地方

各ポリスの構造はおおむね、次のようになっています。
 (下図は、タクミな話より引用。)
ポリス アゴラ
ポリスの周囲は城壁で囲まれています。
外敵の侵入を防ぐためです。
中央には、小高い丘があります。
「アクロポリス」といいます。
頂(いただき)には城塞、つまり、とりでが設けられています。
戦争の場合は、最後の拠点となります。
ここに神殿が併置される場合も多いです。
 (下図は、海外旅行・海外ツアーの楽しみ方より引用。)
アクロポリス

アクロポリスのふもとには、「アゴラ」と呼ばれる広場があります。
人々はここで、政治のはなしをしたり、商売をします。
周囲には民家があります。
このようなポリスが、ギリシア本土やイオニア地方に、1500以上存在していました。

ポリスには、3種類の身分が存在します。
上から順に、
貴族、
平民、
奴隷、
です。
市民として扱われるのは、貴族と、平民です。
ほとんどの市民は奴隷を所有していました。
奴隷は市民の畑で農作業をさせられたり、鉱山で働かされました。

ポリスのなかで、「2強」と呼ばれたのが、アテネ(下図の番)とスパルタ(下図の番)です。
 (下図は、世界史の窓より引用。)
ギリシアのポリス(アテネとスパルタ)

本日はスパルタに焦点をあてます。
ここは他のポリスと一線を画す特異なことをおこなっていました。
富国強兵を目的とした教育制度です。
「スパルタ教育」とよばれています。
国をあげて強靱な国民の育成に努めました。

なぜこのようなことをおこなったのでしょうか。
理由があります。
まずは、アテネとの対比から、スパルタの社会構成をみてみたいと思います。

アテネの人口は、29万人です。
内訳は、市民が18万人で、奴隷が11万人です。
市民のほうが7万人ほど多いです。

一方スパルタは、22万5千人の住民のうち、市民は2万5000人しかいません。
残りの20万人は、奴隷です。
数からみると、市民は圧倒的に少数派です。
もしも奴隷がいっせいに蜂起したら、市民は負けます。
そこで生み出されたのが、「スパルタ教育」という制度です。
これはリュクルゴスという人物が創設したと伝えられています。
この人物が実際に存在したかどうかについては、諸説あります。

突然ですが、ここでぼくのほうから問題をだしてみたいと思います。

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問1 スパルタでは、生まれたばかりの赤ちゃんに対して、テストをします。
   強い子に育つかどうかをみきわめるためです。
   どのようなテストをおこなったのでしょうか?

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問2 上記のテストの結果、強い子に育たないと判定された赤ちゃんはどうなったのでしょうか?

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問3 男の子は6歳になると全員、あることをさせられました。
   それは何でしょうか?

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問4 男性だけでなく、女性もからだを鍛えました。
   女性の場合は、あるスポーツが奨励されました。   
   どのようなスポーツでしょうか?

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問5 夫がひ弱だと、強い子供は生まれてきません。
   この場合、夫はどうするのでしょうか?

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おわかりになられたでしょうか。
答は明日のブログでご紹介をします。

はなしは変わります。
香西咲さんのブログ(おとこの娘~( ´▽`)ノ)より引用。


今年は本当に早かったな

いつもに増して
沢山の収穫があった1年でした。

昨日、この香西咲さんのことばについてふれようと思ったのですが、テニスの疲れのために、途中で力尽きてしまいました。

(再掲)
いつもに増して
沢山の収穫があった1年でした。

ぼくはこの文章を読んだとき、深淵からわきあがる情をおさえることができませんでした。
夕日をみて、それが美しいと思うか、かなしいと思うかは、ひとそれぞれです。
香西咲さんは人生を誠実に、ひたむきに生きておられます。
このようなかたが、しあわせになれないはずがありません。
ぼくは、理想が現実を支配する、というドイツ観念論の考え方が好きです。
香西咲さんの理想が花開くことを願っております。



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香西咲さんに紹介したい歴史のエピソード ~クレタ文明とミケーネ文明

香西咲さんを勝手に応援するサイトの管理人の「焼酎好き」です。よろしくお願いします。

これまでギリシアの古代文明につきまして、ご紹介をしてきました。
本日は2つの文明のまとめをしてみたいと思います。

クレタ文明

B.C.2000年頃からB.C.1600年頃にかけて栄えました。
中心地は、クレタ島のクノッソス(下図の番)です。

 (以下の地図は、世界史の窓より引用。)
ミケーネ文明とトロヤ文明の地図

クレタは他のギリシアの小王国から、貢ぎ物を受け取っていたようです。
ギリシア神話では、アテネ(上図の番)に対して生け贄を要求していました。
この文明の存在を発見したのは、イギリス人のエヴァンズです。
1900年に発掘しました。
クレタ文明で使われていた文字は、「線文字」と呼ばれています。

 (下図はWEBLIO辞書から引用)
線文字A

 (下図はWikipediaから引用)
線文字A(粘土板)

線文字は、解読がなされていません。
このため、クレタ文明については、不明の点が数多く残されています。
解明が待たれるところです。

ちなみに、古代エジプトの歴史につきましても、以前は、ほとんど何もわかっていませんでした。
1798年からナポレオンが、エジプト遠征をおこないます。
このとき、165人の学者を引き連れていきました。
フランス人はエジプトに対して強いあこがれを持っていたからです。
ナポレオンは戦争のかたわら、各地で発掘作業をおこないます。
このときにみつけたのが「ロゼッタストーン」です。
1799年のことでした。
世紀の大発見です。
高さ1メートルほどの石です。
ここには、国王をたたえる同じ文章が、神聖文字、民衆文字、ギリシア文字、の順で刻まれていました。
当然、ギリシア文字は読むことができます。

ロゼッタストーン
(下図は、井上教室より引用。)
ロゼッタストーン2
24年後の1822年、フランス人のシャンポリオンが、神聖文字の解読に成功しました。

線文字のほうはまだ誰も読むことができません。
クレタ文明はB.C.1600年頃に滅びました。
原因はよくわかっていません。
ギリシアの北方からやってきたアカイア人(ギリシア人の一派)によって滅ぼされた、との説が有力です。
地震と津波によって消滅したとの説もあります。

ミケーネ文明

クレタ文明の滅亡と前後して、アカイア人がミケーネ文明をつくります。
B.C.1600年頃からB.C.1200年頃にかけて栄えました。
中心地は、ミケーネ(下図の番)、ティリンス(下図の番)、ピュロス(下図の番)などです。

 (以下の地図は、世界史の窓より引用。)
ミケーネ文明とトロヤ文明の地図

1870年代に、ドイツ人のシュリーマンが、トロヤ(上図の番)とミケーネ(上図の番)を発掘しました。
ミケーネ文明で使われていた文字は、「線文字」です。

 (下図はWEBLIO辞書から引用)
線文字B

「線文字」は、1953年に、イギリスの建築家であるヴェントリスによって解読されました。
ミケーネ文明は、B.C.1200年頃に滅びます。
「海の民」という謎の集団に襲われたためです。
この集団の正体につきましては、諸説があります。

ミケーネ文明が滅んでからの数百年間は、暗黒時代です。
このときに何があったのかは明確になっていません。
大規模な破壊活動がおこなわれていたようです。

紀元前8世紀頃になって、ポリス社会が姿をあらわしてきます。
ギリシア人は、ギリシア世界を統一する大きな国をつくることはありませんでした。
各地に、王のいない都市国家(ポリス)が成立します。
このことにつきましては明日以降のブログでご紹介をしたいと思います。

香西咲さんの最新のブログ(おとこの娘~( ´▽`)ノ)を拝見させていただきました。
何だかとてもすがすがしい気分になりました。
香西咲さんの文章にはひとを幸せにする力があります。



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クノッソスの迷宮伝説(その3) ~イカロスの翼

香西咲さんを勝手に応援するサイトの管理人の「焼酎好き」です。よろしくお願いします。

本日は、「クノッソスの迷宮伝説」の後日談につきましてご紹介をします。
いつものように、ぼく流の解釈も交えて書いています。

テーセウスは、クレタ王女のアリアドネを連れて、アテネへ戻りました。
これを知ったミノス王は、怒り狂いました。
「いったい生け贄たちは、どうやってあの迷宮を抜け出したのだ」
その後、落ち着きを取り戻した王は、工人のダイダロスを疑いました。
「脱出方法を知っているのはあの男しかいない」
ダイダロスと、息子のイカロスを王宮に召喚しました。
取り調べに対してダイダロスはすぐに、自分の非を認めました。
王が詰問しました。
「なぜそのようなことをいたした?」
逡巡したダイダロスが口を開きました。
「王女さまに懇願されました」
そのことばを訊いたとき王は、一瞬、困惑の色を浮かべました。
すぐに平静さを装いました。
部下のほうを向いて声を張り上げました。
「この者たちを幽閉せよ」

ダイダロスとイカロスは、高くそびえ立つ塔の上階に閉じこめられました。
ここでこのまま一生を終えるのだろうか。
ダイダロスの心を絶念の情がおそいました。
うつろな目で窓の外をみました。
鳥たちが自由に空を飛んでいます。
「自分にも翼があれば」
と、ダイダロスがつぶやきました。
その瞬間、脳裏を過ぎったものがあります。
床に目をやりました。
鳥の羽根が落ちています。
これで翼をつくれないだろうか。
ダイダロスは毎日、窓から舞い込んでくる羽根を拾い集めました。

これだけあればなんとかなりそうだ。
ダイダロスは自分の考えを息子に伝えました。
イカロスは感嘆したものの、すぐに表情を曇らせました。
「羽根はたくさんあるけれど、接着剤がないよ」
ここは自分たちの仕事場とはちがいます。
何も揃っていません。
ダイダロスが笑みを浮かべました。
「外の壁をみてごらん」
イカロスが窓から顔を出しました。
ダイダロスが背後からいいました。
「蜂の巣があるだろう」
イカロスは大きな巣があるのを認めました。
そうか。
わかった。
イカロスは、ダイダロスを振り返りました。
「蜜蝋(みつろう)をつくるんだね」
 (下図は、TAKA.のブログより引用。)
蜜蝋
ダイダロスが肯きました。

やがて2対の翼が完成しました。
二人はそれを背中につけました。
 (Domenico Piola画)
Domenico Piola(イカロスの翼)
ダイダロスがいいました。
「飛ぶときは、中くらいの高さを心がけなさい。低いと霧が邪魔をする。高くなりすぎると、太陽の熱で蝋(ろう)が溶けてしまうから」
イカロスが肯首しました。
二人は飛び立ちました。
その姿をみた人々は、神々が空を飛んでいる、と思ったそうです。

クレタ島を遠く離れて、二人はトルコのそばの(下図の赤い部分)の上空までやってきました。
イカリア海
このときイカロスは、より高く空を飛びたい衝動に駆られました。
「よし、あの太陽まで行ってやる」
そういって、上昇をはじめます。
眼下の島が小さくなっていきます。
突然イカロスは、自分の周囲で、無数の羽根が舞っていることに気がつきました。
翼がこわれたのです。
太陽の熱によって、羽根と羽根をつなぎ止めていた蝋(ろう)が溶けたのです。
イカロスは海に向かって降下していきます。

しばらくしてダイダロスは、海に浮かぶイカロスの亡骸(なきがら)と、翼の残骸を発見しました。
その海は、イカロスの名にちなんで、「イカリア海」と名づけられました。
ちなみに、上図の赤い部分の島は現在、「イカリア島」と呼ばれています。
 

「勇気一つを友にして」

 ・作詞 片岡輝
 ・作曲 越部信義
 ・歌  山田美也子

 むかし ギリシアの イカロスは
 ろうで かためた 鳥の 羽根
 両手に持って 飛び立った
 雲より高く まだ遠く
 勇気一つを 友にして

 おかは ぐんぐん 遠ざかり
 下に広がる 青い海
 両手の羽根を はばたかせ
 太陽目指し 飛んでいく
 勇気一つを 友にして

 赤く燃え立つ 太陽に
 ろうで固めた 鳥の羽根
 みるみるとけて まい散った
 つばさうばわれ イカロスは
 落ちて命を 失った

 だけどぼくらは イカロスの
 鉄の勇気を 受けついで
 明日へ向かい 飛び立った
 ぼくらは強く 生きていく
 勇気一つを 友にして

(YouTubeより引用)

(再掲)
だけどぼくらは イカロスの
鉄の勇気を 受けついで
明日へ向かい 飛び立った

この歌詞のように、はたしてイカロスには勇気があったのでしょうか。

(「イカロスの墜落のある風景」ブリューゲル画)
「イカロスの墜落のある風景」ブリューゲル画
上図の赤丸の箇所が、イカロスの落ちたところです。
足だけをみせております。
この絵をみますと、周囲のひとたちはイカロスに対して無関心です。
作者は、愚か者の対象としてイカロスを描いています。
ぼくもイカロスの行為は浅薄(せんぱく)であったと思います。

香西咲さんは聡明です。

ぼくは香西咲さんのブログから多くのことを学びました。
 ・近況報告
微笑む香西咲の画像
 ・ホンネ
香西咲ハロウィン

ありがとうございます。



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クノッソスの迷宮伝説(その2) ~クレタ王妃アリアドネとアテネ王子テーセウス

香西咲さんを勝手に応援するサイトの管理人の「焼酎好き」です。よろしくお願いします。

昨日に引き続きまして、「クノッソスの迷宮伝説」について書いてみたいと思います。
作品につきましては、いつものようにリライトしています。
ぼく流の解釈も入っております。
それではご紹介します。

牛人ミノタウロスの好物は人間です。
窮した王は、工人のダイダロス親子に依頼して、一度入ったら二度と出てこられない路の殿をつくりました。
建物の奥には、「ラブリス」という両刃の斧が置かれていました。
ここから「ラビリンス」(迷宮)ということばが生まれたという説があります。 

 (以下の画像は、ギリシャ旅行記より引用。)
クノッソス復元図

それからしばらくして、クレタ島のミノス王の息子(地図上のに在住)が、アテネ(地図上の)へ遊びに行きました。
祭りを見物するためです。
 (以下の地図は、世界史の窓より引用。)
ミケーネ文明
当地で王子は、急逝します。
死因については諸説があります。

ミノス王は激憤しました。
アテネの人間の手によって殺されたのに違いない。
王は軍艦を率いてアテネを攻撃します。
戦いは長期に渡りました。
膠着(こうちゃく)状態がつづきます。

ミノス王は主神のゼウスに対して、助力を祈願しました。
神はこれに応えました。
アテネに飢饉(ききん)と疫病を蔓延させました。
あぐねたアテネ側は、ミノス王の条件をのんで和平を結ぶことにしました。
提案が示されました。
毎年、ミノタウロスのために生け贄(いけにえ)を捧げてほしい、と。
アテネは承諾しました。
人数の提示もなされました。
少年が7人、少女は7人です。
こちらも同意しました。

人身御供の対象者は、くじで選ばれることとなりました。
抽選の時期が近づいてきました。
アテネの親たちは悲嘆にくれました。
もしも自分の子供が選ばれたら、クレタ島のクノッソスに連れていかれます。
ミノタウロスに食べられてしまうのです。

こうしたとき、アテネの王子であるテーセウスが旅から戻ってきました。
事情を知ります。
義憤にかられました。
「ぼくが怪物を退治する」
テーセウスは自ら進んで、犠牲となる他の少年少女たちと一緒に、クレタ島へ行くことにしました。

ミノス王のもとに、生け贄となる子供たちが連れてこられました。
娘のアリアドネも横で、それを眺めていました。
テーセウスの姿が視界に入りました。
眉目秀麗(びもくしゅうれい)の容貌です。
一瞬で恋に落ちました。

アリアドネは何気ない素振りを装ってテーセウスに近づきました。
うしろから小声を当てます。
「私は王女です。私の夫になってくれませんか?」
振り向き、一瞥したテーセウスが、ことばを洩らしました。
「わかりました」

迷宮を建てたのは、工人のダイダロスです。
アリアドネは、ダイダロスのところへ行って、脱出方法を聞き出します。

生け贄の者たちがミノタウロスのいるところへ送られることになりました。
テーセウス少年のところに再び、アリアドネがやってきました。
「この麻糸の玉と短剣を持っていってください」
テーセウスは周囲に悟られぬようにして受け取りました。
アリアドネがささやきます。
「糸の端を迷宮の入口に結んで奥へ進んでください。入口のカギはあとで私が開けます」
テーセウスが肯きました。

 (以下の画像は、クレタ島ミノア文明のクノッソス宮殿遺跡より引用。)
クノックス宮殿の丘

テーセウスたちは、迷宮の中に閉じこめられました。

 (以下の画像は、ギリシャ旅行記より引用。)
クノックス迷宮の内部

あとでアリアドネがやってきて、入口の施錠を解いてくれることになっています。
それまでここに鎮座しているわけにはいきません。
ミノタウロスを倒さなければなりません。
成就しなければ、毎年アテネからここへ人身御供を送らなければなりません。
一行は奥へと進みました。

しばらく行くと、けものの気配を感じました。
ミノタウロスでした。
両目に異様な光を宿らせています。
テーセウスは隠し持っていた短剣を取り出しました。

 (以下の画像は、Shoulder.jpより引用。)
テーセウス2

悲鳴とともに、ミノタウロスが倒れました。
テーセウスたちは、糸をたぐって入口へたどりつきました。
しばらくの間、待っていると、カギの開く音がしました。
アリアドネでした。
テーセウスが声を弾ませていいました。
「ぼくと一緒にアテネに行こう」
アリアドネが肯きました。

昨日のブログでもご紹介しました。
クノッソス宮殿の遺跡から出てきた壁画です。
 (以下の画像は、女の一人旅より引用。)
EPSON MFP image
「牛跳びのサーカス」といわれています。
突進している牡牛(おうし)とともに、三人の少年が描かれています。

これは一人の少年がおこなう行為の順序を描いたものである、と解釈するひともいます。
 (※注 図内の番号は、ぼくが付け加えました。)
牛跳びのサーカス
まず、①で、牛の角をつかみます。
これができたら、ジャンプします。
次は、②です。牛の背中に手をついて、逆立ちをします。
うまくできたら、反転して着地します。
最後に③です。成功のあかしとして、両手を前に伸ばしてポーズをとります。

神への奉納を目的とした宗教的な儀式なのかもしれません。

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香西咲最高の笑顔画像
今日もまた、香西咲さんのこの美しい写真を拝見させていただきました。
短い時間でしたが。
(※大きな画像は、香西咲さんのツイッターでご覧になることができます。)
長く見つめていると、ため息が止まらなくなってしまうので、控えることにしています。
純麗です。



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香西咲さんに紹介したい歴史のエピソード ~クノッソスの迷宮伝説

香西咲さんを勝手に応援するサイトの管理人の「焼酎好き」です。よろしくお願いします。

昨日までのブログで、ギリシアのミケーネ文明(B.C.1600年頃~B.C.1200年頃)に関してご紹介をしました。
この文明はシュリーマンによって明らかとなりました。
それ以前のギリシアはどのような状況だったのでしょうか。
誰にもわかりませんでした。
ふたたびこの謎に挑戦したのがシュリーマンでした。
ギリシア神話のなかにつぎのような物語があります。

むかし、むかし、クレタ島クノッソス(地図上の番)に、ミノスという王が君臨していました。
 (以下の地図は、世界史の窓より引用。)
ミケーネ文明
ミノスが王になる前のことです。
競争者が一人いました。
ミノスは策略をめぐらしました。
もしも自分が民衆の前で奇跡を起こすことができたら、誰もがこちらになびく。
海の神のポセイドンにお願いをすることにしました。
「海から牡牛(おうし)を出してくれませんか」
と。
「必ずあとでその牛を殺して神々に捧げます」
ともつづけました。
神は承諾しました。
後日、衆目々が見守るなか、海から牛が出現しました。
驚嘆した人々は、ミノスが王になることを承認しました。

王位についたミノスは宮殿のなかで嘆息しました。
神との約束を果たさなければなりません。
横の牡牛(おうし)を一瞥しました。
「殺すには惜しい」
これまでにみたことのない立派な体躯です。
逡巡した王は、牛を自分の牧場のなかへ追いやりました。
神には、
「どれがあの牛なのかわからなくなってしまいました」
と、弁明しました。
ポセイドンは憤りました。
このままにしておくことはできない。
はかりごとをめぐらせました。
ミノスを困らすために、妻のバシバエに呪いをかけることにしました。

突然、バシバエは、あのポセイドンの牡牛(おうし)のことが脳裏から離れなくなりました。
牧場へ会いに行きました。
相手にされませんでした。
苦悶したバシバエは、工人(工作を職とする人)のダイダロスを訪ねました。
事情をはなしました。
黙って聞いていた相手が口を開きました。
「わかりました。わたしが何とかいたしましょう」
ダイダロスは木を細工して牝牛(めうし)の模型をつくりました。
見事な仕上がりです。
バシバエは、中へ入ることを促されました。
ダイダロスは、収まったのを確認したのち、外側に本物の牝牛(めうし)の皮を貼りました。
そのあとで、牧場まで運びました。
しばらくして、あの牡牛(おうし)が近くに寄ってきました。
バシバエの恋は成就しました。

しばらくしてバシバエは、牛との間にできた子供を産みました。
幻妖な風体でした。
顔が牛で、からだは人間です。
「ミノタウロス」と名づけられました。
怪物は、人間を食することを欲しました。
このまま放っておくことはできません。
ミノス王は、ダイダロスに依頼しました。
この化け物が二度と出てこれない建物をつくってくれ、と。
ダイダロスと息子は、その要求に応えました。
一度中へ入ると、出口がわからずに二度と外へ出ることができない宮殿を完成させました。
迷宮(ラビリンス)です。
ミノタウロスはそこに閉じこめられました。

シュリーマンはまたしても、この神話のなかに真実が隠されていると確信しました。
クノックスの発掘を思いたちます。
1883年のことでした。
当時クレタ島は、オスマン帝国(トルコ)に支配されていました。
シュリーマンはトルコ人の地主のところへ許可をもらいに行きました。
トロヤやミケーネで宝物を掘り出した人物がいる、との噂が各地に広がっていました。
地主は本人がやってきたことを知ると、法外な料金を提示しました。
驚いたシュリーマンは、発掘品はすべてギリシア政府に納めており、自分が所有しているものはひとつもない、と説明しました。
交渉は難航しました。
クノックスの丘には2500本のオリーブの木が植えてあります。
発掘作業をおこなうためにはこの木をすべて伐採しなければなりません。
最後は、木一本ずつに対する補償金を支払うことで決着がつきました。
シュリーマンは発掘に必要なものを買い揃えて、クレタ島へ送りました。

1889年、自分自身も島に降り立ちます。
現地に着と、オリーブの木が1本もないことに気がつきました。
訊くと、すべてを別の場所へ移したとのことです。
シュリーマンは激怒しました。
「1本ずつの金をとっておきながら他へ移すとは何ごとだ」
発掘作業は中止となりました。

クレタ島は1898年に、オスマン帝国から自治権を獲得しました。
これを知ったイギリス人のアーサー=エヴァンズは、クノッソスの発掘に乗り出します。
博物館の館長をしていた人物です。
資金は裕福な父が援助してくれることとなりました。
シュリーマンのときとは違って、交渉は順調に推移しました。
1900年に発掘作業を開始します。

 (以下の画像は、忘れへんうちに 旅編より引用。間取り図です。)
クノッソス宮殿

1200もの部屋が入り組んだ何層もの複雑な建造物があらわれました。

 (以下の画像は、ビーバーランド・ネットより引用。復元図です。)
クノッソス宮殿想像図

4階建ての建物です。
1階だけでも小部屋が100以上あります。
中には、曲がりくねった廊下と、数多くの階段がありました。
ギリシア神話に書かれていた迷宮は実在したのです。

 (以下の画像は、女の一人旅より引用。)
EPSON MFP image

の頭のレリーフや、跳びのサーカスの壁画なども発掘されました。

こうして、エヴァンズによって、ギリシアで最古の文明が発見されました。
下図の()文明のところです。
「クレタ文明」と名づけられました。

ミケーネ文明の頃

明日のブログでは、牛人のミノタウロスのその後についてご紹介をしたいと思います。

話は変わりますけれども、今日は仕事に忙殺されました。
食事はおろか、休憩をとる時間もほとんどありませんでした。
困憊(こんぱい)していたとき、わずかな時間ですけれども、香西咲さんのこちらの写真を拝見しました。

香西咲最高の笑顔画像

追いつめられていた情が霧散しました。
ありがとうございました。
個人的には香西咲さんの素敵な顔の写真集を出してほしいです。



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