「私は美しく生きることをアリストテレスに学んだ」 ~男の美しい生き方とは

香西咲さんを勝手に応援するサイトの管理人の「焼酎好き」です。よろしくお願いします。

昨日はテニスの疲れもあって、ブログをサーバへアップしてからすぐに、眠ってしまいました、
今朝は普段よりも遅くに起きました。
ツイッターを訪問しました。
盛況だったようです。
最初から順に読むことにしました。
ある企画が紹介されていました。
ゆっくりと眺めました。
ぼくは特に何も感じませんでした。
香西咲さんが謝っている文章のところで目が止まりました。
どういうことなのだろうか。
不安がよぎりました。
とりあえず先に進みました。
通覧したところで、先ほどの箇所へ戻りました。
リンクが貼ってあります。
クリックしました。
あるかたのブログが表示されました。
読みました。
四角い豆腐も切りようでは丸くなる、ということばがあります。
そのような印象を受けました。
ツイッターへ戻りました。
香西咲さんのプランに対する、ファンのかたたちのコメントを読んでみました。
静謐(せいひつ)です。
みなさん、冷静です。
歓喜や待望のコメントが連なるということにはなっていませんでした。
気になりましたけれども、今日は仕事の関係で外出しなければなりません。
パソコンの電源を切りました。
ぼくは基本的に、ネットにはあまり興味がありません。
外でブラウザを開きたいと思ったことはありません。
ただ、こういうときはスマホがあれば便利なのにと思いました。

先ほど帰宅しました。
ツイッターを確認しました。
消えている記事もいくつかありました。
気丈な様子の香西咲さんのツイートをみて、安堵しました。
肩で息をしました。

過去のブログでも書きました。
香西咲さんは心の広いかたです。

香西咲さんの寛容さと、ストア派のエピクテトス(2014年10月7日)
ニューカレドニアの海と、ヘーゲルの弁証法(2014年9月27日)

ファンの皆さんのコメントを読んでみました。
今朝と同じで、どのかたのも冷静です。
香西咲さんに対する激励の気持ちが満ち溢れています。
優しいかたがたです。
胸があつくなりました。

当該ブログをもう一度読んでみました。
これまでもたびたびツイッターにリンクが貼られていましたので、拝見したことはあります。
ほとんどが斜め読みでしたが。
失礼ながら途中でみるのをやめたこともあります。
今回は真面目に対峙しました。

ぼくはこのかたのことを何も存じあげておりません。
ブログにつきましては今年の春先ぐらいまで遡って、眺めさせていただきました。
それ以前のものは省略させていただきました。

「私は生きることを父のフィリッポスに、美しく生きることをアリストテレスに学んだ」
アレクサンドロスのことばです。
当ブログでも紹介させていただきました。

人間は美しく生きなければなりません。
美しいとはもちろん、外見のことではありません。
そのかたのブログを一読したあと、ぼくはこのアリストテレスのことばを思い浮かべました。

一番気になったのは、相手を責めていることです。
香西咲さんは心身ともに傷ついておられます。
そのかたに対してこのようなことを申すのはいかがなものでしょうか。
以前にも書きました。
香西咲さんは皆さんにとって、便利な道具でもなければ、愛玩用のものでもありません。
崇高な精神をもった気高い女性です。

別にぼくは書かれていることに対して批判をするつもりはありません。
何を綴られても自由であると思います。
ただ、相手を傷つけたり、ものごとを曲解している点につきましては、訂正をする必要があると考えます。

香西咲さんのツイートは現在、すべてのものが残されていません。
当該ブログにはコピーが掲載されていますので、そちらを参考にしながら書きます。

香西咲さんは、女優とファンによる討論会のようなイベントを提案しました。
それも一度きりではなく、その席である程度まとまった意見を次回以降へと高めていくものです。
これを複数回おこなうことによってより良いものを生み出していこうとの考えです。
メーカーに対しても提案しています。
こういうやりかたもあるということを。

それを当該ブログの筆者は読み違えてしまいました。

香西咲さんの脳裏にはいろいろな思いが幾重にも重なっていたのでしょう。
自分のときにもこのような催しがあればよかったのにとか。
この文章にはそのような心情も含まれているとは思います。
ただ、香西咲さんはあくまで一般論としてこれを書かれています。
おそらくは仲間のご友人のことを思われてこのようなことを考えられたのでしょう。
そのかたたちのためによりよい環境をつくってあげたい。
そう読みとるべきでしょう。
この文章で香西咲さんは、「主宰の女優もファンの方々も含めて」という表現を使っておられます。
「私とファンの方々も含めて」とは書いていません。
大所高所から提案された。
そう解釈すべきです。

当該ブログを書かれたかたは、数か月前の香西咲さんに戻ってほしいと訴えています。
それは無理でしょう。
もう一度、香西咲さんのブログをお読みください。

近況報告(2014年10月1日)
ホンネ(2014年10月8日)

香西咲さんは「近況報告」である程度の方向性を出されております。
「ホンネ」でそのことを補完されています。
熟読してしていただければおわかりになると思います。

デカルトは物事を順序立てて考えるということを重視しました。
このようにして考えるやりかたを演繹(えんえき)法といいます。
デカルトはいいました。
もっとも不確実で当てにならないものすべてに疑いの目を向けなさいと。
真理を発見するために、これは当てにならない、これは嘘でないか、と疑いなさい、と。
これを方法的懐疑といいます。
デカルトがその当てにならないものの筆頭にあげたのが、錯覚です。
デカルトの考えと対極に位置するのが、フランシス=ベーコンです。
フランシス=ベーコンは、経験を通して真理を発見することが大切であると説きました。
このような方法を帰納法といいます。
フランシス=ベーコンは、人間というのは錯覚をする動物であるといいます。
いくら経験を積んでも錯覚を取り除かなければ真理をみいだすことはできない、そう力説しました。
つまり、両者とも考え方は違いますけれども、錯覚を取り除くという点では一致しています。

当該ブログの執筆者は錯覚をされました。
間違いはそこからはじまりました。
香西咲さんはあらぬことを書かれていたく傷ついたと思われます。
今回は非を認めて素直に謝罪をされてはいかがでしょうか。

当該ブログの執筆者様も応援ブログを書かれておられます。
一緒に、香西咲さんのこれからの幸せを願いませんか。
遠藤周作の「わたしが・棄てた・女」(講談社文庫)という作品があります。
書店で買えます。
遠藤周作は純文学作家です。
時折、大衆小説と純文学の中間的な存在の小説を書きました。
中間小説といいます。
上述の作品は中間小説です。
純文学とは違い、とても読みやすいです。
ただし、内容はとても重いです。
もちろんこの小説は、香西咲さんとまったく関係がありません。
何の関連性もありません。
これを読むと、男というのはどう生きるべきなのかがわかります。
僭越ながら、「美しい生き方」について発見できるかと思います。
一読されることをご期待いたします。



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