香西咲さんを勝手に応援するサイトの管理人の「焼酎好き」です。よろしくお願いします。
香西咲さんのブログ、「ホンネ」を拝見しました。
冒頭でいきなりぼくは、鋭利なもので胸を刺されました。
高鳴る心臓の鼓動とともに、文章を追います。
愉しそうな場面に切り替わります。
安堵している自分がいることに気がつきました。
突然、香西咲さんの心情が吐露されます。
息をのみました。
葛藤が展開されていきます。
ぼくは両手をかたく握りしめました。
難解な文章です。
ぼくはゆっくりと行間を読み進めます。
最後は明るい未来を暗示させる終わりかたでした。
肩を楽にしました。
いつの間にかぼくは、爽快な気分になっている自分に気がつきました。
香西咲さんの文章は膂力(りょりょく)があります。
すごいのひとことです。
僭越ながら、分析してみました。
香西咲さんは接続詞をほとんど使っていません。
接続詞で文章をつないでいくと、文章が弛緩します。
香西咲さんの文章が引き締まっているのはこのためです。
センテンスも短いです。
ぼくも文章を書くときは、ショートセンテンスを心がけています。
40字以内を目安にしています。
香西咲さんの場合はさらに短く、ほとんどが30字以内です。
このため躍動感があります。
読了後、アメリカの小説家のスタインベックの文章を思い出しました。
スタインベックもショートセンテンスの使い手でした。
今回、香西咲さんが書かれたリリカルな文章を読んで、驚いたことがあります。
それは、
「なんの鎧もまとっていない、普通~の女子」
というくだりです。
パーソナリティということばがあります。
一般的に、「性格」と訳されますが、外見的な見かけの自己、という意味で用いることもあります。
パーソナリティの語源は、ラテン語のペルソナに由来するといわれています。
ペルソナは劇などで使用される仮面を意味していました。
ひとは多かれ少なかれ、人前でペルソナをかぶっているものです。
香西咲さんはいま、「香西咲」というペルソナをはずして、
「普通に女子やってます」
とのことです。
ぼくはほほえましくなりました。
香西咲さんはいろいろと考えることもおありのようです。
参考になるかどうかはわかりませんけれども、一人の哲学者をご紹介します。
「われ思うゆえにわれあり」ということばが有名なデカルトです。
デカルトは、道理にかなっていること(合理性)こそが真理、と考えました。
学生のころぼくは、理詰めで相手をやりこめたことがあります。
筋を通せ、とか、それは論理的ではない、とかいって。
いまにして思えば、忸怩(じくじ)たるものがあります。
あのころはあまりにもまじめで直線的でした。
いまはデカルトに興味がありません。
ゆるく生きておりますので。
ただ、デカルトの主張のなかには、考えさせられるものもあります。
以下に、著書の「方法序説」で書かれている文章を紹介します。
(引用)
良識はこの世でもっとも公平に分け与えられているものである。
というのも、だれも良識なら十分身に具わっている と思っているので、他のことでは何でも気難しい人たちでさえ、良識については、自分がいま持っている以上を望まないのが普通だからだ。
この点で みんなが思い違いをしているとは思えない。
むしろそれが立証しているのは、正しく判断し、真と偽を区別する能力、これこそ、 ほんらいの良識とか理性と呼ばれているものだが、そういう能力がすべての人に生まれつき平等に具わっていることだ。
読みやすくはない文章です。
簡単にいいますとこういうことです。
人間は皆、生まれながらにして、考える力をもっている。
それを正しくつかえば、真理を得ることができる、と。
デカルトは考えるということを重視しています。
(引用)
だから、 わたしたちの意見が分かれるのは、ある人が他人よりも理性があるということによるのではなく、ただ、わたしたちが思考を異なる道筋で導き、同一のことを考察していないことから生じるのである。
簡単に書きます。
人々の意見がまちまちなのは、あるひとは理性の力が強く、あるひとはそれが弱いという理由によるものではない。
正しく順序を追って考えていかないからだといっています。
それでは、正しく順序を追って考えるとは、具体的にどういうことなのでしょうか。
デカルトは4つの原則をのべています。
以下に紹介します。
(1)明証(明らかな証拠)の規則
(引用)
わたしが明証的に真だと認めるのでなければ、どんなことも真として受け入れないことだった。
言い換えれば、注意ぶかく速断と偏見を避けること、そして疑いをさしはさむ余地のまったくないほど明晰かつ判明に精神に現れるもの以外は、何もわたしの判断のなかに含めないこと。
即断したり、偏見をもつな。
何ひとつ疑う余地のないものだけを自分の判断材料にとりいれなさい、といっています。
人間の感覚は当てにならないとデカルトは考えました。
たとえば、上図の上の線と下の線に注目してください。
どちらも同じ長さなのですが、下の線のほうが長くみえます。
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(2)分析の規則
(引用)
わたしが検討する難問の一つ一つを、できるだけ多くの、しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分割すること。
思索(筋道を立てて深く考えること)の対象を細かく分析しなさい、といっています。
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(3)総合の規則
(引用)
わたしの思考を順序にしたがって導くこと。そこでは、もっとも単純でもっとも認識しやすいものから始めて、少しずつ、階段を昇るようにして、もっとも複雑なものの認識にまで昇っていき、自然のままでは互いに前後の順序がつかないものの間にさえも順序を想定して進むこと。
単純なものから複雑なものへと段階をおって考えなさい、といっています。
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(4)列挙の規則
(引用)
すべての場合に、完全な枚挙と全体にわたる見直しをして、なにも見落とさなかったと確信すること。
すべての資料を徹底的に見直しなさい、といっています。
デカルトはこのようにして、4つの原則に則って正しく順序を追って考えていけば、真理を得ることができる、と説きました。
現在、デカルトに関しては評価が分かれるところです。
香西咲さんはどのように感じられたでしょうか。
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