香西咲さんの寛容さと、ストア派のエピクテトス

香西咲さんを勝手に応援するサイトの管理人の「焼酎好き」です。よろしくお願いします。

香西咲さんは温厚なかたです。
過日のブログ(ニューカレドニアの海と、ヘーゲルの弁証法)でも書きました。
相手に対して謙虚な態度で、誠実に応対されている姿が印象的でした。
香西咲さんは美しいです。
外見だけではなく、心も。
「天は二物を与えず」ということばがあります。
例外もあったようです。
心の微笑みが表情に写しだされています。

香西咲さんのTwitter(2014年6月22日)より引用。

自分の為に100%生きようと決めたら、
限りある時間と労力を使って
わざわざ他人を批判する時間や、腹を立たせてる時間も勿体無いよね。
自分の為にならないし。

限りある時間と労力を
100%自分の為に使おう!

こちらのツイートを拝見したときぼくは、エピクテトスのことを思い出しました。
エピクテトスは、ローマ帝国の最盛期とされる「五賢帝時代」(96年~180年)に活躍した哲学者です。
心の平安を理想とするストア派に属しておりました。
著書の「語録」のなかに、つぎのような文章があります。

(引用)
記憶しておくがいい、きみを侮辱するものは、きみを罵ったり、なぐったりする者ではなく、これらの人から侮辱されていると思うその思惑なのだ。
それでだれかがきみを怒らすならば、きみの考えがきみを怒らせたのだと知るがいい。
だから第一に、心像に奪い去られぬようにしたまえ。
なぜなら、もしきみがひとたび考える時間と猶予とを得るならば、容易にきみ自身に打ち勝つだろうから。

ちょっとわかりづらいいいまわしですので、別の例をあげて書いてみます。

ぼくがいま、ある人物から、腹立たしい行為をされたとします。
当然、ぼくは、そのひとに対して、怒りや憎しみの情を覚えます。
エピクテトスは、これが間違いだ、といいます。
たしかにその人物は、ぼくに不快感を与えました。
ぼくは許せない気持ちとなります。
ここで一旦立ち止まって考えてみますと、このような気持ちを抱いたのは、ぼくの心です。
怒りは、そのひとのなかにあるのではなく、ぼくのなかにあります。
エピクテトスはこういいたいのだと思います。
自分の心です。自身で制御しなさい、と。

これは香西咲さんがおっしゃられていることと同じです。
感嘆させられます。
香西咲さんは先哲が終生かけて生み出した理論を日常のなかで何気なく実践されているのですから。
それにしてもなぜ、ここまで大人になれるのでしょうか。
理性によって貫徹されています。
ぼくでしたら、どうでしょうか。
ぼくは先頭に立って相手を批判したり攻撃することはありません。
ただ、売られた喧嘩は基本的に買います。
時間と労力のむだです。
香西咲さんのような寛容な人物になりたいです。

エピクテトスは同じ著書のなかで、このようなこともいっております。

(引用)
自分のものでない長所は、何も自慢せぬがいい。
もし馬が自慢して「私は美しい」といったとするならば、それは我慢できるだろう。
だが、きみが自慢して「私は美しい馬を持っている」というならば、きみは馬の優良なことを自慢しているんだと知るがいい。ところで、きみのものはなになのか。
心像の使い方だ。
したがって、きみの心像の使い方が自然にかなっているとき、その時こそ自慢するがいい。
というのは、そのときは、なにかきみの優良なものを自慢しているのだから。

わかりづらい文章です。
たとえば、いまここに、高価な馬を買って、それを自慢しているひとがいます。
これに対してエピクテトスは、こういっています。
馬があなたのことを自慢するのならわかります。
ところがそうなっていません。
なぜあなたは馬を自慢するのですか。
あなたの心には、自慢するものがないのですか、と。

この指摘は痛快です。

いま、エピクテトスのことを書いていて、ストア派のもうひとりの偉大な人物のことが脳裏を過ぎりました。
人間の価値について、ごく短いことばをのべています。
明日のブログで紹介したいと思います。

香西咲さんのツイッターに、ニューカレドニアでの写真が掲載されていました。
これは反則だと思いました。
ニューカレドニアの海は、世界一です。
それなのに、香西咲さんが一緒に写っているために、その海が色褪せてみえるのですから。
ニューカレドニアの海もやりきれない思いでしょう。



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