香西咲さんと、洞窟のイドラ ~フランシス=ベーコン&プラトン

香西咲さんを勝手に応援するサイトの管理人の「焼酎好き」です。よろしくお願いします。

香西咲さんのブログの「近況報告」のなかに、自分の意思を確認するために敢えてコミュニケーションツールから離れていた時期があったとの記述があります。

ぼくはこの文章を目にしたとき、感嘆しました。
ひとは皆、多かれ少なかれ、自分の安息できる場所というものをもっています。
居場所でもあり、くつろぐことができる場所です。
香西咲さんは、ここから一時自分を遠ざけられました。
すごいと思いました。
容易にできることではありません。

フランシス=ベーコンというイギリスの哲学者がいます。
経験論を確立したひとです。
論旨は明快です。
多くの経験をつみかさねて真理を発見する、という考え方です。
帰納法、または実験的方法ともいいます。
経験は人間にとって重要なことです。
ただ、人間の行動にはかならず、誤解や先入観がともないます。
真実をくもらす要因のことをイドラといいます。
いくら立派な経験をしたとしても、その背後にイドラがあったのでは、真理をみいだすことはできません。
そこでベーコンは、イドラの実態を明らかにしました。

具体的には、
劇場のイドラ、
市場のイドラ、
洞窟のイドラ、
種族のイドラ、
の4種類があります。

本日は、洞窟のイドラについてご紹介します。
実はこれは、ベーコンのオリジナルではありません。
過日のブログでもご紹介しましたが、プラトンのたとえばなしを引用したものです。
洞窟のイドラとは、狭い洞窟のなかで繰り広げられる出来事がこの世のすべてと思いこむ偏見のことです。

世の中は広いです。
そうはいいましても、人間というのは、己の属していている狭い空間だけが自分にとっての世界となってしまいます。
香西咲さんは一時そこを離れて、自分をみつめました。
普通、ひとは、自分が所属している世界の意見に染まってしまいがちです。
しがらみもできます。
それを断ち切ってひとりで思索をおこなう。
膂力(りょりょく)を感じました。

ツイッターという狭い洞窟のなかにも、当然、良心的な書き込みはあります。
10月1日のブログの繰り返しは避けますけれども、そこにはぼくの許容範囲を超えているものもあります。
目の前に心身共に傷ついているひとがいます。
それなのに、自分の欲望のために過酷なことを要望する。
ぼくには理解できません。

東洋のロマン=ロランといわれた倉田百三という作家がいます。
「出家とその弟子」という作品が有名です。
そのなかの一節を紹介します。

「恋するとき、人間の心は不思議に純になるのだ。人生の哀しみがわかるのだ。地上の運命に触れるのだ」

男の優しさとは、相手の痛みがわかることであると思います。
どうすればそれがわかるようになるのか。
上述した男性のみなさんは、まず、誰かに恋をしてください。
すると、人生の哀しみがわかります。
相手の哀しみもわかります。
さらにこれを愛にまで発展させてください。
真剣に女性を愛したり、愛されてください。
ひとの痛みがわかる人間になれます。
そのためにも、女性にもてる男になりましょう。
努力されることを期待します。

すみません。
ちょっと脱線しました。

昨日のブログの最後に、ドストエフスキーのことばを紹介しました。

「コロンブスが幸福であったのは、彼がアメリカを発見したときでなく、これを発見しつつあった時であると。
幸福は生活の絶え間なき永遠の探求にあるのであって、断じて発見にあるのではない」

このあとに、もうひとつ続けようと思ったのですが、テニスの疲れもあって眠ってしまいました。
それは、ドストエフスキーの箴言と似ています。

「幸福とは、幸福への意志である」

これをいったのは、ドイツの文学者のヘルマン=ヘッセです。
世の中には自らの幸福を願っていないひとも若干存在しています。
幸福というものは、自ら望んで追い求めることが必要なのかもしれません。

コロンブスは幸福を追い求めてアメリカ大陸を発見しました。
ドストエフスキーは、このことについて、
「コロンブスが幸福であったのは、彼がアメリカを発見したときでなく、これを発見しつつあった時である」
「幸福は生活の絶え間なき永遠の探求にあるのであって、断じて発見にあるのではない」
といったわけです。



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