月別アーカイブ: 2014年10月

香西咲さんに紹介したい歴史のエピソード ~「最後の授業」

香西咲さんを勝手に応援するサイトの管理人の「焼酎好き」です。よろしくお願いします。

「最後の授業」という物語があります。
フランス人のアルフォンス=ドーデーが書いた作品です。
幼いころに読まれたかもしれません。
とりあえず紹介してみたいと思います。
次のような内容です。

フランスのアルザスに、フランツという少年が住んでいました。

(※地図は、Miwa’s Adventures in Wonderlandから引用。)
アルザス・ロレーヌ地方

ある朝、フランツは、遅刻をして登校します。

(「最後の授業」から引用)

あいにくその日は、何もかもひっそりとして、まるで日曜の朝のようだった。友だちはめいめいの席に並んでいて、アメル先生が、恐ろしい鉄の定規を抱えて行ったり来たりしているのが開いた窓越しに見える。戸を開けて、この静まり返ったまっただなかへ入らなければならない。どんなに恥ずかしく、どんなに恐ろしく思ったことか!

ところが、大違い。アメル先生は怒らずに私を見て、ごく優しく、こう言った。

「早く席へ着いて、フランツ。君がいないでも始めるところだった」

フランツは安堵します。
やがて、教室の雰囲気がいつもとは違うことに気がつきます。

(引用)

私は先生が、督学官の来る日か賞品授与式の日でなければ着ない、立派な、緑色のフロックコートを着て、細かくひだの付いた幅広のネクタイをつけ、刺しゅうをした黒い絹の縁なし帽をかぶっているのに気がついた。それに、教室全体に、何か異様なおごそかさがあった。いちばん驚かされたのは、教室の奥のふだんは空いている席に、村の人たちが、私たちのように黙って腰をおろしていることだった。
(略)
そして、この人たちはみんな悲しそうだった。オゼールじいさんは、縁のいたんだ古い初等読本を持って来ていて、ひざの上にひろげ、大きなめがねを、開いたページの上に置いていた。

教壇に上ったアメル先生が、次のように語りかけます。

(引用)

「みなさん、私が授業をするのはこれが最後です。アルザスロレーヌの学校では、ドイツ語しか教えてはいけないという命令が、ベルリンから来ました…… 新しい先生が明日見えます。今日はフランス語の最後のおけいこです。」

(※地図は、Miwa’s Adventures in Wonderlandから引用。)
アルザス・ロレーヌ地方

1870年、プロイセン(普魯西)と、フランス(仏蘭西)の間で、戦争がおこなわれました。
普仏戦争です。
プロイセンの首相のビスマルクと、フランスの皇帝のナポレオン3世の戦いでもあります。

 (※左がビスマルク。右はナポレオン3世)
ビスマルクナポレオン3世・44歳(皇帝)  
この戦争につきましては、過日のブログ(ニューカレドニアのアメデ島の灯台と、ナポレオン3世)でも簡単にふれております。

プロイセンは当時、21のドイツ人の小国(領邦)と一緒に、「北ドイツ連邦」を結成していました。
盟主はプロイセンです。
南ドイツのいくつかの領邦は、これに加わっていませんでした。
戦争が始まると、バイエルンなど、「北ドイツ連邦」の一員ではない領邦も、戦争に参加しました。
ドイツ連合軍は、フランス軍を圧倒します。
やがてフランスの領内へ攻め入ります。
ナポレオン3世は、焦燥感にかられます。
叔父のナポレオン1世がかつておこなったやりかたを模倣することにしました。
自らが軍隊の先頭に立って指揮を執ることです。
戦いの最前線へ向かいました。
ナポレオン3世には、将軍としての経験がありませんでした。
戦いの途中でドイツ軍に包囲されてしまいます。
ナポレオン3世は、8万人のフランス軍とともに降伏します。
自身は捕虜となりました。
ドイツ軍は進軍をつづけて、首都のパリを包囲します。
1871年1月、フランスの臨時政府は、ドイツに降伏します。
わずか半年間の戦いでした。
ドイツ側は、各領邦が団結して戦いました。
1871年1月、ドイツ帝国の成立が宣言されます。
戦争終結後、両国の間で講和条約が結ばれます。
フランスは、アルザスロレーヌを手放すこととなりました。

(引用)

それから、アメル先生は、フランス語について、つぎからつぎへと話を始めた。フランス語は世界じゅうでいちばん美しい、いちばんはっきりした、いちばん力強い言葉であることや、ある民族がどれいとなっても、その国語を保っているかぎりは、そのろう獄のかぎを握っているようなものだから、私たちのあいだでフランス語をよく守って、決して忘れてはならないことを話した。

(引用)

日課が終ると、習字に移った。この日のために、アメル先生は新しいお手本を用意しておかれた。それには、みごとな丸い書体で、「フランス、アルザス、フランス、アルザス」と書いてあった。

とつぜん教会の時計が十二時を打ち、続いてアンジェリュスの鐘が鳴った。

アメル先生が教壇に上ります。

(地図は、Miwa’s Adventures in Wonderlandから引用。)
アルザス・ロレーヌ地方
(引用)

「みなさん、」と彼は言った。「みなさん、私は……私は……」

しかし何かが彼の息を詰まらせた。彼は言葉を終ることができなかった。

そこで彼は黒板の方へ向きなおると、白墨を一つ手にとって、ありったけの力でしっかりと、できるだけ大きな字で書いた。

「フランスばんざい!」

そうして、頭を壁に押し当てたまま、そこを動かなかった。そして、手で合図をした。

「もうおしまいだ…… お帰り」

1914年8月1日、ドイツはロシアに宣戦布告します。
ここから第一次世界大戦が始まります。
ドイツは、2日後の8月3日、フランスにも宣戦します。

4年後、ドイツが降伏して、戦争は終わります。
1919年1月、戦後処理を話し合うパリ講和会議が開かれました。
フランス首相のクレマンソーは、
「ドイツ人に何もかも払わせてみせる」
という態度でのぞみました。
これを反映してつくられたヴェルサイユ条約は、ドイツにとって過酷なものとなりました。
内容は次の通りです。
 ・巨額な賠償金の支払い
 ・全植民地の放棄
 ・潜水艦と空軍の保有禁止など軍備の制限
 ・ラインラント地方の非武装化
 ・アルザス・ロレーヌ地方のフランスへの割譲

こうして、アルザスとロレーヌはふたたび、フランスのものとなります。

1940年、第二次世界大戦でドイツは、アルザスとロレーヌをフランスから取り返します。
この占領は、1944年までつづきます。




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香西咲さんに紹介したい歴史のエピソード ~「かわいそうな ぞう」(その2)

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本日も「かわいそうな ぞう」についてふれてみたいと思います。
昨日のブログでも書きました。
以前に、インターネット上において、この作品に対するつまらない指摘をみかけたことがあります。
その筆者は、
「軍部は、動物園の猛獣を殺せ、といっていない」
と力説していました。
検証してみたいと思います。

「軍部は、動物園の猛獣を殺せ、といっていない」

1943年8月16日、上野動物園は、園内の猛獣を殺せとの命令を受けます。
命令をくだしたのは軍部となっています。
先の筆者は、事実と違う、といいます。
その通りです。
上野動物園に対して命令をくだしたのは、東京都長官の大達茂雄です。
東京都長官とは、現在の東京都知事のことです。
猛獣の殺害は、地方自治体の段階でおこなわれました。
上述した筆者は、これをもって、軍部は一切関わっていないと結論づけます。
あまりにも短絡的な考え方です。
まず、長官(知事)は、現在のように住民の選挙で選ばれていません。
すべて政府から派遣されていました。
つまり、動物園の猛獣に対する殺害を決定したのは、長官(知事)でなく、日本政府です。
当時の政府を掌握していたのは、軍部です。
つまり、殺害命令は、軍部がくだしたということになります。

それではなぜ、猛獣を殺さなければならなかったのか。

1982年に東京都が編集した「上野動物園百年史」を読みますと、このあたりのことがよくわかります。
動物園側は、太平洋戦争の前から、非常時のさいの動物の非常処置の問題について、検討していたそうです。
1942年4月18日、アメリカ軍の爆撃機がはじめて、日本の上空に姿をあらわしました。
全部で16機です。
このうちの12機が東京に侵入しました。、
他は、横須賀に1機、名古屋と四日市に2機、神戸に1機です。
それぞれが上空から爆弾を落としていきました。
合計で120人のかたが犠牲となりました。
動物園としては、非常時における施策の必要性を痛感します。
その後、アメリカ軍による空襲はありませんでした。
なぜか。
それは以下の地図をご覧になればわかります。
(地図は岐阜県まるごと学園(岐阜県教育委員会)のサイトより引用。)
太平洋戦争(日本の勢力範囲)
赤い線の内側が日本の勢力圏です。
アメリカの飛行機はこの線の外側から飛び立たなければなりません。
日本の上空へやってくることはできても、帰りの燃料がたりません。
ちなみに、1942年4月18日にやってきたアメリカ軍の爆撃機は、自国へ戻ることができませんでした。
途中で墜落したり、中国やロシアに不時着しています。
1943年8月16日、動物園当局は、大達茂雄東京都長官から、
「象、猛獣類を射殺せよ」
との命令を受けます。
動物園側は次のように推測しました。
これは、動物の処分そのものを目的としたものではない。
都民に対して、戦争が容易ならない状況にたちいっていることを警告したいのだ、と。
殺害の期間は、1か月以内です。
手段は結局、射殺ではなく毒殺となりました。
使用された薬品は、硝酸ストリキニーネです。
処分は翌日の8月17日から始められました。
ヒグマ、クマ、ライオン、ヒョウ、チータ、クロヒョウ、インドゾウ、トラ、ホッキョクグマ、ニホンツキノワグマ、アメリカヤキュウ、ニシキヘビ、ガラガラヘビなどが毒殺されていきます。
このなかには、生後6か月にもならないヒョウの赤ちゃんも含まれていました。

当時、徳川夢声という俳優がいました。
そのかたの書かれた日記を引用します。

「夢声戦争日記」(1943年9月)より。

3日(金曜) 動物園のライオンを始め、猛獣が、最も懇切なる方法によって処分された、とある。東京都の相好が、だんだん物凄くなってくる感じだ。可愛そうでならない。ライオンや虎は、空襲時などに暴れ出したら困るだろうが、象や河馬は気の毒である・・・・・・。

5日(日曜) 昨日午後2時から上野動物園で殉難動物の慰霊祭が行われ、大達都長官等の花環が捧げられたという。位牌には「殉難猛獣霊位」と書かれ、卒塔婆には「多宝塔者為時局捨身動物供養と書かれたそうだ。象も白熊も殺されたという。あの坊やと共に見物した芸を演るオハナさんも殺されたかと思うと、暗然たらざるを得ない・・・・・・。

(地図は岐阜県まるごと学園(岐阜県教育委員会)のサイトより引用。)
太平洋戦争(日本の勢力範囲)

1944年7月、アメリカが日本から、マリアナ諸島を奪います。
1944年10月 アメリカはマリアナ諸島に、爆撃機の発進基地をつくります。これによって、日本への空襲が可能となります。
1944年11月1日 マリアナ基地を飛び立った1機の偵察機が、東京の上空に姿をあらわします。
1944年11月5日 アメリカ軍の偵察機が1機やってきます。
1944年11月7日 この日も、偵察機が1機やってきます。
1944年11月24日 突如、70機の爆撃機がやってきて、空襲をおこないます。
1944年12月 この月は合計で15回の空襲がありました。
1945年1月 合計で100機の来襲がありました。死者数は590名です。
1945年2月 合計で751機の来襲がありました。死者数は750名です。
1945年3月10日 「東京大空襲」です。死者はこの日だけで10万人にのぼりました。

これらの空襲によって上野動物園の猛獣が死ぬことはありませんでした。
1年以上も前にすべてが殺されていたのですから。



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英語の自主規制と、かわいそうなぞう

香西咲さんを勝手に応援するサイトの管理人の「焼酎好き」です。よろしくお願いします。

本日も戦争の話題について書いてみたいと思います。
1941年12月8日から、太平洋戦争が始まりました。
アメリカやイギリスとの戦いです。
英語を話す人たちが相手です。
日本の国民のなかから、敵国の言語である英語を駆逐しようとの運動が澎湃(ほうはい)として起きてきます。
いまにして思えば、滑稽なはなしではあります。
国がこれを後押しすることはありませんでした。
あくまでも国民やマスコミによる自主規制の発露です。

ここで、ぼくのほうから、問題を出してみたいと思います。

問1 これはどのようなことばを言い換えたものなのでしょうか?
   カタカナで答えてください。

①雪滑り
②繰り出し鉛筆
③練歩(※ヒント 「ピ◯◯ッ◯」)
④氷滑り
⑤洋日傘

———————————————————

問2 野球用語です。語群から、適切なことばを選んでみてください。

 <語群>
 ヒットファールストライクセーフストレートボールタイムカーブアウト

①正球
②悪球
③正打
④圏外
⑤安全
⑥無為
⑦素球
⑧曲球
⑨停止

———————————————————

問3 スポーツ名をカタカナで答えてください。

①排球
②蹴球
③杖球
④肉弾
⑤闘球

———————————————————

おわかりになったでしょうか。
「問1」は意外と簡単です。
練歩以外は、答えることができたと思います。
「問2」も語群がありますので、よく考えればわかります。
「問3」は、杖球、肉弾、闘球がむずかしいのではないでしょうか。

正解は以下の通りです。

———————————————————

問1

①雪滑り = スキー
②繰り出し鉛筆 = シャープペンシル
③練歩 = ピクニック
④氷滑り = スケート
⑤洋日傘 = パラソル

———————————————————

問2       

①正球 = ストライク
②悪球 = ボール
③正打 = ヒット
④圏外 = ファール
⑤安全 = セーフ
⑥無為 = アウト
⑦素球 = ストレート
⑧曲球 = カーブ
⑨停止 = タイム

———————————————————-

問3 

①排球 = バレーボール(※昨日は、バスケットボールと誤記してしまいました。訂正させていただきます。)
②蹴球 = サッカー
③杖球 = ホッケー
④肉弾 = レスリング
⑤闘球 = ラグビー

———————————————————

太平洋戦争(1941年12月8日~1945年8月15日)では、300万人の日本人の命が犠牲となりました。
夥(おびただ)しい数です。
あまりの多さに慄然とさせられます。
死んだのは人間だけではありません。
動物も命を奪われました。

次の話は有名なのでご存じかもしれません。

太平洋戦争が始まってから、4か月後のことです。
アメリカ軍の戦闘機が日本へやってきて、上空から焼夷弾を落としていきました。
空襲のはじまりです。

1943年8月16日、東京の上野動物園に対して、
「1か月以内に園内の猛獣を殺しなさい」
との命令がくだります。
爆風によって檻が壊されて、猛獣が逃げ出したらたいへんなことになる、と考えたからです。
殺害の方法は、毒殺、です。
銃殺はおこなわないことにしました。
銃声は近隣の住民に不安感を与える、というのがその理由です。

毎日、猛獣が毒殺されていきます。
三頭の象がいました。
ジョンと、ワンリー(日本名は花子)と、トンキーです。
この三頭は賢くて、毒の混じったえさを食べません。
困った動物園側は、餓死させることにしました。

(小学校「こくご二年上」1967年文部省検定済・学校図書版 ~つちや・ゆきお「かわいそうな ぞう」より引用)

毎日、えさを やらない 日が つづきました。トンキーも ワンリーも、だんだんやせほそって いきました。そのうちに、げっそりと やせた 顔に、あの 小さな目が、ぐっと 玉のように とび出して、耳ばかりが 大きく 見える ほどの、かなしい すがたに かわりました。
今まで、どの ぞうも じぶんの こどものように かわいがって きた、ぞうががりの 人は、
「ああ、かわいそうに。かわいそうに。」
と、おりの 前を 行ったり 来たり、うろうろするばかりです。
すると、この とき、ワンリーも トンキーも、ひょろひょろと からだを おこしてすすみ出ました。おたがいに ぐったりと した からだを、せなかで もたれあって、げいとうを はじめたのでした。
後ろ足で 立ちあがりました。前足を おりまげました。はなを 高く 高く あげて、ばんざいを しました。しなびきった からだじゅうの 力を ふりしぼって、いっしょうけんめいです。げいとうを すれば、いぜんのように えさが もらえると 思って、よろけながら ばんざいを して いるのです。
「ああ、ワンリーや、トンキーや。」
と、ぞうがかりの 人は、もう、がまんが できません。なき声を あげて、えさの ある こやへ とびこみました。走って 水も はこんで きました。
「さあ、食べろ、食べろ。のんで くれ。のんで おくれ。」
と、ぞうの 足に だきすがりました。

ジョンは13日後に餓死します。
ワンリーは18日目に、絶命します。
トンキーは30日間生き延びたのち、亡くなります。

三頭はとてもおとなしい象だったといいます。
以前にインターネットで、このはなしに対するつまらない指摘を読んだことがあります。
世の中には些事に拘泥するひとが存在していると感じました。
このことにつきましては、明日のブログでふれてみたいと思います。

先に紹介したことばの自主規制についてですけれども、「レースクイーン」はどのように言い換えたらいいのでしょうか。
香西咲レースクイーン
それにしても、香西咲さんのレースクイーンの姿は最高です。



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翼賛体制の愚かさと、香西咲さんの聡明さ

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本日は、明治以降の日本がおこなってきた戦争について、振り返ってみたいと思います。

1868年 明治維新(この年から明治が始まる) 
  21年後
1889年 大日本帝国憲法が発布される
1890年 この憲法が施行される
  4年後
1894年 日清戦争・・・・・・中国と戦う(勝利)
  10年後
1904年 日露戦争・・・・・・ロシアと戦う(勝利)
  10年後
1914年 第一次世界大戦・・・・・・ドイツと戦う(勝利)
  17年後
1931年 満州事変・・・・・・中国から、東北地方(満州)を奪う(勝利) 
  ↓(6年後
1937年 日中戦争・・・・・・中国との全面戦争に突入(決着がつかず) 
  4年後
1941年 太平洋戦争・・・・・・アメリカなどとの全面戦争に突入 
  4年後
1945年 終戦
—————————————————————————
ご覧の通り、日清戦争から第一次世界大戦まで、日本は10年おきに戦争をおこなっています。
その後、第一次世界大戦から満州事変までは、17年間、戦争がありませんでした。
このあとは、数年おきに戦争を繰り返しています。
第一次世界大戦が終わってからなぜ、17年間も戦争をしなかったのか。
これには理由があります。
上述した流れに対して、主な出来事を付け加えてみます。

 1912年 元号が「大正」となる。  
1914年 第一次世界大戦・・・・・・ドイツと戦う(勝利)
 1918年 本格的な政党内閣が始まる(原敬内閣)
 1925年 普通選挙法成立(25歳以上の男子に選挙権)
 1926年 元号が「昭和」となる。

1910年代に入ると、尾崎行雄や犬養毅らの政党政治家が、精力的に活動をおこないます。
目指したのは、非政党内閣の打倒と、財産のあるなしに関わらず選挙権が行使できる普通選挙の実現です。
尾崎行雄は、国会議員を60年以上も勤めたひととしても有名です。
1918年に、原敬(はらたかし)を首班とする本格的な政党内閣が誕生します。
これは画期的な出来事です。
原敬は、衆議院に議席を持つ政党の党首、という立場で、首相に任命されました。
ちなみに、当時の首相は、元老によって選ばれていました。
元老とは、明治政府の功労者のことです。
伊藤博文、山県有朋(ありとも)、黒田清隆、井上馨(かおる)、松方正義、西郷従道、大山巌、桂太郎、西園寺公望(きんもち)などの人物がおりました。
1925年には、25歳以上の男性を有権者とする普通選挙法が成立します。
このようにして、大正時代に民主主義が発展しました。
「大正デモクラシー」と称されます。
もちろん良いことばかりではありません。
普通選挙法が成立した1925年には、国民の言論や思想の自由を制限する治安維持法もつくられました。

1929年に、アメリカで恐慌が発生します。
これが世界中に広がります。
世界恐慌です。
日本もこの影響を受けます。
経済が行き詰まった日本は、資源の豊富な中国の東北地方(満州)を手に入れようとします。 
—————————————————————————
 1929年 世界恐慌
1931年 満州事変・・・・・・中国から、東北地方(満州)を奪う(勝利) 
 1932年 5.15事件(政党政治家の犬養毅首相が暗殺される) 
 1936年 2.26事件(軍部によるクーデター未遂事件)

満州事変後、政党政治家の犬養毅が首相に選ばれます。
犬養毅首相は、5.15事件で暗殺されます。
2.26事件以降、軍部の力が増してきます。
—————————————————————————
1937年 日中戦争・・・・・・中国との全面戦争に突入(決着がつかず) 
 1940年 各政党は、解党

1940年に各政党は、自ら解党します。
その後、大政翼賛会という戦争に協力する組織に吸収されていきます。
1941年10月18日、現役の軍人である東条英機が首相に選ばれます。
同年の12月8日、日本はハワイの真珠湾を攻撃します。
—————————————————————————
1941年 太平洋戦争・・・・・・アメリカなどとの全面戦争に突入 
  4年後
1945年 終戦

香西咲さんのブログ(近況報告)より引用。

咲はここ1ヶ月くらい、意識的に電波断ちをしていました。

親友達とニューカレドニアに行ったり。
国内でも電波が通じにくい山の中に行ってみたり。

・・・何故かって?
本当の自分を知るためです。

いつも電波のある所にいると
たまに
ファンの皆様の意見=自分の意見
と錯覚してしまう事があります。

本当の自分の意見が見えづらくなってしまいます。

だから1ヶ月近く
SNSや携帯から意識的に離れてみました。

この文章を読んだとき、ぼくは、唸りました。
香西咲さんはすごいです。
太平洋戦争中、日本の国会には、一つの政党しかありませんでした。
大政翼賛会という名の軍事政党です。
国会議員は皆、同じことしかいいません。
国民もそうです。
日本全体が呪縛されたかのように自分の意思を喪失していました。

あのとき、日本の国会議員や首相や国民が、香西咲さんと同じことをおこなっていれば。
あのような無謀な戦いをおこなうことはなかったと思います。



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香西咲さんのツイートから、戦争について考えてみました ~大日本帝国憲法ー

香西咲さんを勝手に応援するサイトの管理人の「焼酎好き」です。よろしくお願いします。

<香西咲さんのTwitter(8月25日)より引用>

戦争を経験してきた人達はみんな死と隣り合わせであんな思いをしながら必死に生きてきたんですよね。
時代が違うとはいえ、今の自分はどう生きる事が最善なんだろう?

香西咲さんのツイートに触発されまして、昨日と一昨日のブログで、戦争について書いてみました。

 ・(10月26日)香西咲さんのツイートから、個と全体について考えてみました(2) ~「オランダ魂」
 ・(10月25日)香西咲さんのツイートから、個と全体について考えてみました

本日は、大日本帝国憲法の条文から、戦争について考えてみたいと思います。
この憲法ができたのは、1889年(明治22年)年の2月11日です。
ちなみに2月11日は現在、祝日となっています。
建国記念の日です。
この憲法は、翌年の11月29日から施行されました。
明治憲法ともいいます。

戦争に関する条文をみてみたいと思います。
————————————————————————————————–
・第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥

統帥(とうすい)とは、軍隊を支配下において率(ひき)いる、という意味です。 
統帥権は、天皇にありました。
————————————————————————————————–
・第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム

常備兵額は、常に用意しておく軍隊の規模、のことです。
これを定めるのは天皇です。
————————————————————————————————–
・第13条 天皇戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス

「戦ヲ宣シ」とは、戦争を開始する意思を宣言することです。つまり、宣戦、のことです。
「和ヲ講シ」は、交戦国が互いに協定を結んで戦争をやめることです。つまり、講和です。
この2つのことをおこなえるのは、天皇です。
————————————————————————————————–
このように、天皇は戦争に関して、強大な権限をもっていました。
ここから、天皇には戦争責任がある、と声高に叫ぶひとがいます。
たしかに、3つの条文をみますと、そのような結論となります。
これは違います。
あまりにも短絡的です。
条文をすべて読んでいないひとが導き出す稚拙な論理展開です。

・第55条 国務各大臣天皇輔弼シ其ノ責ニ任ス

輔弼(ほひつ)とは、補佐するという意味です。
第55条はこのように読みとります。
それぞれの大臣は、天皇がおこなう仕事に対して意見を申し上げ、その自分の発言に対して全責任を負(お)う。
つまり、現在の、象徴天皇、と同じような考え方です。
当時もいまも、天皇は国政に関与しません。
大日本帝国憲法のもとで、実際に政治をおこなったのは、各大臣です。
ちなみに各大臣のなかで主席の地位にあるひとを首相といいます。

(再掲)
・第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム

軍隊の規模を定めるためには、お金が必要です。
次のような条文があります。

・第64条 国家ノ歳出歳入ハ毎年予算ヲ以テ帝国議会ノ協賛ヲ経ヘシ

協賛とは、賛同して協力する、という意味です。
つまり、予算を承認してもらうためには、国会の賛同が必要です。
国会が協賛しなければ、予算は通りません。
ただし、否決をすることはできませんでした。
額の修正のみ、ができます。
国会はがんばりました。
国会の歴史は、軍事費の削減の歴史でもありました。
毎年、大幅な削減をおこなってきました。
もっともこれは、太平洋戦争の前までの話ではありますけれども。

話は変わります。
「平和の象徴」といいますと、何を連想するでしょうか。
鳩を思い浮かべるかたが多いかもしれません。
ピースマークもあります。
ちなみにぼくは、このかたが頭に浮かびます。
香西咲ピースサイン(笑顔)
香西咲さんは、「平和の象徴」です。
このかたに勝るひとはいません。



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香西咲さんのツイートから、個と全体について考えてみました(2) ~「オランダ魂」

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本日も、個と全体の関係について書いてみたいと思います。
昨日のブログでは、「水兵の母」と「一太郎やあい」についてふれました。
執筆の途中でぼくは、似たようなはなしを思い出しました。
戦前の修身(道徳)の教科書などに掲載されていた「オランダ魂」という作品です。
美談です。
ご存じかたも多いのではないでしょうか。

ご紹介の前に、オランダについて簡単に説明してみたいと思います。
オランダの正式名称は、ネーデルランド(the Netherlands)です。
「オランダ」と呼んでいるのは、日本だけです。
外国では通用しません。
1598年に、リーフデ号という船が、ネーデルランドを出航しました。
インドネシア方面をめざしていました。
胡椒を買い付けるのが目的です。
途中で嵐に巻き込まれました。
漂流します。
1600年、大分県の海岸にたどり着きました。
応接した日本の役人が国名を問います。
乗組員はホラント州の出身でしたので、
「ホラントからきた」
と答えました。
役人はこのとき、国名と勘違いしました。
以降、日本では、ホラントがなまった「オランダ」という名前で呼ぶようになります。
ちなみに、ネーデルランドとは、「低地」を意味します。
国土の4分の1は、海面より下にあります。
8~9世紀ごろから、海や川からの水を防ぐために堤防の建設がはじめられました。
オランダの歴史は、干拓の歴史、でもあります。
「地球は神が創ったが、オランダは人間が創った」とのことばもあります。
過去には堤防が崩壊して、多くのひとが犠牲になったことがあります。
1953年には、高潮と暴風雨のために堤防が決壊して、ゼラント地方の南西部で1853人の死者を出しました。

「オランダ魂」は次のようなストーリーです。
文意を損なわない程度にリライトしてみます。

ハンス=ブリンカーは8才になる少年です。
ハールレムという村で暮らしていました。
ある日のことです。
堤防の向こう側に、目の見えない老人が住んでいます。
ハンスは母親から、そこの家へクッキーを届けるようにいわれました。
老人宅までやってきたハンスはそこでしばらくの間、楽しく過ごしました。
日が落ちてきたので家に戻ることにしました。
帰宅の途中、堤防に小さな穴があいていることに気がつきました。
穴からは水がにじみ出ています。
これは大変だ。
堤防の大切さは幼少の頃より聞かされています。
水は徐々に勢いを増してきます。
あたりをみわたしました。
適当な大きさの石を拾って、あてがってみました。
だめです。
隙間から水がこぼれます。
困った。
何か良いものはないだろうか。
思案したのちハンスは、水が吹き出ているところへ自分の右手の指を入れました。
今度はうまくいきました。
水はもれてきません。
夜が更けてきました。
ハンスは何度も大声で助けを求めました。
いくら待っても、やってくるものはいません。
ハンスの家ではすでに、戸締まりを終えていました。
息子は老人の家に泊まってくるのだろう、と思っていました。
ハンスは自分の右腕の感覚がなくなってきていることに気がつきました。
寒い。
睡魔が襲ってきます。
眠ってはいけない。
左手で、冷たくなっている右腕をさすりました。
闇に向かって叫びました。
「助けて」
やがてハンスの体が動かなくなりました。
翌朝、牧師が、堤防の穴のなかへ指を入れたままの姿で倒れている少年を発見しました。
ハンスでした。

これは事実ではありません。
フィクションです。
メアリー=メイプス=ドッジというアメリカ人が書いた物語です。
「銀のスケート ハンス・ブリンカーの物語」のなかにでてくる短いエピソードです。
結末については、ハンスが凍死したというヴァージョンもあります。
原文では、救出されています。
このような感じです。

明朝、牧師が、堤防の上を歩いていました。
下のほうでうめき声が聞こえます。
みると、ひとりの子供が苦しみもだえています。
「そこで何をしてる?」
牧師が声を張り上げました。
「水をとめているんです」
との声が返ってきます。
牧師は慌てて下までおりていきます。
ハンスがいいました。
「町のみんなに、すぐ来るようにいってください」
こうしてハンスはオランダの英雄となったのです。

現在でも愛されている佳品です。
感動します。
ぼくも同じようなことをしたかもしれません。
この物語に邪(よこしま)なものが入り込む余地はありません。
ただ、かつての日本は、この種のはなしを以下に結びつけました。

「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ(もし非常事態となったなら、公のため勇敢に仕え、このようにして天下に比類なき皇国の繁栄に尽くしていくべきです)」(教育勅語)

最悪です。
ちなみに、現在は、憲法で次のことが保障されています。

 ・第十九条  思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

国が個人に対して、特定の思想や良心を強制することはできません。

お菓子時々パン日記の画像を引用。)

お菓子時々パン日記の画像に直接リンクをして表示しています。問題がありましたらリンクをはずします。)

香西咲さんが元気になられたようです。
風邪は完治されたのでしょうか。
とてもうれしいです。

香西咲さんのツイートから、個と全体について考えてみました

香西咲さんを勝手に応援するサイトの管理人の「焼酎好き」です。よろしくお願いします。

以前に、香西咲さんは、戦争につきまして次のようなツイートをされました。

<香西咲さんのTwitter(8月25日)より引用>

戦争を経験してきた人達はみんな死と隣り合わせであんな思いをしながら必死に生きてきたんですよね。
時代が違うとはいえ、今の自分はどう生きる事が最善なんだろう?

このことにつきまして、ぼくも、ブログ(香西咲さん、旅行でニューカレドニアへ(5) )のなかで少しだけふれさせていただきました。

当時の日本人は、もしも戦争になれば、日本を救うために自分の命を捨てろ、と教育されてきました。
教育勅語にはこう書かれています。
「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ(もし非常事態となったなら、公のため勇敢に仕え、このようにして天下に比類なき皇国の繁栄に尽くしていくべきです)」

この指針は当時の教科書に色濃く反映されています。
以下に紹介する2つの教材はかつて、小学生が学校の授業で習ったものです。
軍国美談と呼ばれているものです。

「水兵の母」

これは、小学校5年生の教科書に掲載されています。
日清戦争(1894年)の時のエピソードについて書かれています。

(引用)
明治二十七八年戦役の時であった。ある日、わが軍艦高千穂(たかちほ)の一水兵が、手紙を読みながら泣いていた。
ふと、通りかかったある大尉がこれを見て、余りにめめしいふるまひと思って、「こら、どうした。命が惜しくなったか。妻子がこひしくなったか。軍人となって、軍に出たのを男子の面目と思はず、そのありさまは何事だ。兵士の恥は艦の恥、艦の恥は帝国の恥だぞ。」と、ことばするどくしかった。
水兵は驚いて立ちあがり、しばらく大尉の顔を見つめていたが、「それは余りなおことばです。私には、妻も子もありません。私も、日本男子です。何で命を惜しみませう。どうぞ、これをごらんください。」といって、その手紙をさし出した。
大尉がそれを取って見ると、次のやうなことが書いてあった。

「聞けば、そなたは豊島沖(ほうとうおき)の海戦にも出でず、八月十日の威海衛(いかいえい)攻撃とやらにも、かくべつの働きなかりし由、母はいかにも残念に思ひ候。何のために軍(いくさ)には出で候ぞ。一命を捨てて、君の御恩に報ゆるためには候はずや。村の方々は、朝に夕に、いろいろとやさしくお世話なしくだされ、一人の子が、御国のため軍に出でしことなれば、定めし不自由なることもあらん。何にてもえんりょなくいへと、しんせつに仰せくだされ候。母は、その方々の顔を見るごとに、そなたのふがひなきことが思ひ出されて、この胸は張りさくばかりにて候。八幡様に日参致し候も、そなたが、あっぱれなるてがらを立て候やうとの心願に候。母も人間なれば、わが子にくしとはつゆ思ひ申さず。いかばかりの思ひにて、この手紙をしたためしか、よくよくお察しくだされたく候。」

大尉は、これを読んで思はず涙を落とし、水兵の手をにぎって,「私が悪かった。おかあさんの心は、感心のほかはない。おまへの残念がるがるのも、もっともだ。しかし、今の戦争は昔と違って、一人で進んで功を立てるやうなことはできない。将校も兵士も、皆一つになって働かなければならない。すべて上官の命令を守って、自分の職務に精を出すのが第一だ。おかあさんは、一命を捨てて君恩に報いよといっていられるが、まだその折に出あはないのだ。豊島沖の海戦に出なかったことは、艦中一同残念に思っている。しかし、これも仕方がない。そのうちに、はなばなしい戦争もあるだらう。その時には、おたがひにめざましい働きをして、わが高千穂の名をあげよう。このわけをよくおかあさんにいってあげて、安心なさるようにするがよい。」といひ聞かせた。水兵は、頭を下げて聞いていたが、やがて手をあげて敬礼し、にっこりと笑って立ち去った。

読みやすい文章です。
おおむね理解できます。
いちおうぼくのほうでもリライトしてみたいと思います。

ある日、わが軍艦の水兵(船乗り)が、手紙を読みながら泣いていた。
ちょうどその時、上官(上司)がそこを通りかかった。
上官はあまりにも男らしくない姿だと感じて、この部下をきつくしかった。
「こら、どうした。おまえは命が惜しくなったのか。それとも妻子が恋しくなったのか。なぜ軍人として戦いに出ることを誇りに思わないのだ。その態度はなんだ。兵士の恥は艦(艦隊)の恥、艦(艦隊)の恥は帝国(日本)の恥だぞ」
水兵は驚いて上官の顔を見つめた。
しばらくしてから、自分のもっている手紙を差し出した。
「それはあまりなお言葉です。私には妻も子供もおりません。私も日本男子です。どうして自分の命を惜むものですか。どうぞこれをご覧ください」
上官は受け取ったのち、文面をながめた。
手紙にはつぎのようなことが書かれていた。

 聞くところによるとあなたは、今回の戦いでまだこれといって目立った働きをしていないというではありませんか。
 母はとても残念に思っております。
 あなたはなんのためにこの戦争へ参加したのですか。
 自分の命を捨てて天皇に恩返しをしようとは思わないのですか。
 村の人たちは私に対して毎日、とても親切にしてくれます。
 みなさんは、ひとり息子が戦争にいっているのだからいろいろと不自由なことがあるでしょう、困ったことがあれば遠慮なくいってください、とことばをかけてくれます。
 私はそういってくださるみなさんの顔を見るたびに、あなたのふがいなさを思い出し、この胸が張り裂けそうになります。
 私がどのような気持ちでこの手紙を書いたのか、あなたもよく考えてください。

上官はこれを読み終えたあと、涙を流した。
それから水兵の手をかたく握った。
「私が悪かった。お母さんの気持ちはあまりにもすばらしい。おまえが泣くのも無理はない。しかし今の戦争は昔のとは違い、自分ひとりの力で手柄をたてることはむずかしい。今は上官も部下も一緒になってがんばらなければならないのだ。つねに上官の命令を守り、自分の仕事を一生懸命がんばりなさい。きみのお母さんは、自分の命を捨てて天皇に恩返しをしなさい、と言っているが、残念ながら私たちはまだ、その場面に出くわしていない」
水兵は頭をさげて、上官のことばを聞いていた。
話がやむと、手をあげて敬礼をした。
笑顔をつくったのち、そこを立ち去った。

このような感じでしょうか。
それにしてもものすごい母親です。
ありえないはなしです。
母親に責任はありません。
このような狂気を醸成している日本が悪いのです。

「一太郎やあい」

小学校の4年生の教科書に掲載されています。
日露戦争(1904年)の時のエピソードです。

(引用)
日露戦争当時のことである。軍人をのせた御用船が今しも港を出ようとした其の時、
「ごめんなさい。/\。」
といひ/\、見送人をおし分けて、前へ出るおばあさんがある。年は六十四五でもあらうか、腰に小さなふろしきづつみをむすびつけてゐる。御用船を見つけると、
「一太郎やあい。其の船に乗つてゐるなら、鉄砲を上げろ。」
とさけんだ。すると甲板の上で鉄砲を上げた者がある。おばあさんは又さけんだ。
「うちのことはしんぱいするな。天子様によく御ほうこうするだよ。わかつたらもう一度鉄砲を上げろ。」
すると、又鉄砲を上げたのがかすかに見えた。おばあさんは「やれ/\。」といって、其所へすわった。聞けば今朝から五里の山道を、わらぢがけで急いで来たのださうだ。郡長をはじめ、見送の人々はみんな泣いたといふことである。

こちらもぼくのほうでリライトしてみます。

日露戦争の時のことである。
軍人を乗せた船が、港を出ようとしていた。
そのとき、見送りの人たちを押し分けて、
「ごめんなさい、ごめんなさい」
と、おばあさんがあらわれた。
年齢は60代の半ばぐらいだろうか。
腰には、小さなふろしき包みを結びつけている。
おばあさんは船に向かってさけんだ。
「一太郎やあい。乗っているのなら、鉄砲を上げておくれ」
まわりの人たちは目を凝らした。
船の上で鉄砲がかすかに上がった。
おばあさんはふたたび、さけんだ。
「家のことは心配しなくてもいい。それよりも天皇陛下のお役に立つんだよ。わかったらもう一度鉄砲を上げておくれ」
また鉄砲が上がった。
「やれ、やれ」
おばあさんは安心したかのようにして、その場に座り込んだ。
聞くところによると朝早くに家を出て、20kmの山道を駆け足でやってきたらしい。
二人のやりとりをみていた周囲の人たちの目から、涙がこぼれ落ちた。

これは香川県の多度津町で実際にあった話です。
1943年には、多度津町の公園に、その「おばあさん」の銅像がたてられました。
(※以下の画像は多度津町のホームページから引用。)
一太郎やあい
現在でもみることができます。

このブログを書いている途中で、別の話を思い出しました。
軍国美談ではありません。
こちらも、個よりも全体が大事、とのはなしです。
明日のブログでご紹介をしたいと思います。

当時の日本は、嗤(わら)えないことを個人に強いていました。
全体のために個人が犠牲となる。
このようなことは絶対にあってはなりません。
自分を大切にして生きていきたいものです。

香西咲さんのTwitter(2014年9月21日)より引用。

自分を犠牲にして何かをやり通しても、そこに本当の幸せはないよね

名言です。
香西咲さんは聡明なかたです。



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幸福は人生の最大の目標である ~ドクターイエローを凌駕するものー

香西咲さんを勝手に応援するサイトの管理人の「焼酎好き」です。よろしくお願いします。

香西咲さんのTwitter(2014年10月9日)より引用。

ドクターイエローに遭遇したぁぁぁ
幸せになれるんだって

なれると思います。
必ず。

過日のブログ(香西咲さんは、もっとも価値のある人間である)でも書きました。
幸せというのは、人間にとってもっとも大きな価値をもっています。

エピクロス(B.C.342年~B.C.271年)と、ベンサム(1748年~1832年)という哲学者がいます。
両者は、活動をしていた時期が違います。
時代は2000年以上も離れています。
互いの学説も異なります。
その二人が、幸せについて、同じようなことをいっております。

幸福こそ人生の最大の目標であり、かつ善悪の価値基準である、と。

エピクロスは、エピクロス学派の嚆矢(こうし)です。
人生の目的は幸福の追求である、とのことばを残しております。

ベンサムは、功利説の代表者です。
著書の「道徳および立法の諸原理序説」のなかで、次のように論じています。

(引用)
自然は人類を苦痛と快楽という、二人の主権者の支配のもとにおいてきた。われわれが何をしなければならないかということを指示し、またわれわれが何をするであろうかということを決定するのは、ただ苦痛と快楽だけである。
一方においては善悪の基準が、他方においては原因と結果の連鎖が、この二つの玉座につながれている。
苦痛と快楽とは、われわれのするすべてのこと、われわれの言うすべてのこと、われわれの考えるすべてのことについて、われわれを支配しているのであって、このような従属をはらいのけようとどんなに努力しても、その努力はこのような従属を証明し、確認するのに役だつだけであろう。

人間は、苦痛と快楽(幸福)のもとで生活をしています。
自分たちの行動を決定づけるのは、快楽(幸福)です。
人間の行動はすべて、快楽(幸福)を求めておこなわれます。
ベンサムは、幸福を増進し苦痛を減少させるのが善である、と主張しました。
これを功利説といいます。

弟子のジョン・スチュアート・ミル(1806年~1873年)も、幸福について、次のようにいっています。

幸福があらゆる行動の基本原理であり、人生の目標である、と。

カール=ブッセ(上田敏訳)の作品に、「山のあなた」という有名な詩があります。

(引用)

山のあなたの空遠く
「幸(さいわい)」住むと人のいふ
ああ、われひとり尋(と)めゆきて
涙さしぐみ帰りきぬ
山のあなたのなお遠く
「幸(さいわい)」住むと人のいふ

いまひとつわかりづらい文章です。
現代風に訳してみます。

山の向こう側に、幸せがあるといわれている。
私はひとりで探しに行った。
みつからずに、涙ぐんで帰ってきた。
幸せは、山のさらに遠いところにあるようだ。

このような感じでしょうか。
幸せへの憧憬が的確に表現されています。
幸せとは、希望をもって求めつづけていくものなのかもしれません。

ドクターイエローはすさまじい人気です。
実は、これ以上のものが存在しています。

それは、あるかたの写真です。

その写真をみたかたは皆、幸せになれます。

珠玉の7枚を紹介します。

香西咲幸せの写真・画像 (4)

香西咲幸せの写真・画像 (2)

香西咲幸せの写真・画像 (3)

香西咲幸せの写真・画像 (1)

香西咲幸せの写真・画像 (7)

香西咲幸せの写真・画像 (5)

香西咲幸せの写真・画像 (6)

これであなたも幸せになれます。

香西咲さんの風邪が治りかけているようです。
安堵しました。
うれしいです。
無理をせずに、ゆっくりお休みください。



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古代ギリシアにおけるアテネの男性の女性観

香西咲さんを勝手に応援するサイトの管理人の「焼酎好き」です。よろしくお願いします。

ギリシアではかつて、国内に数百の小国が栄えていました。
当ブログでも以前にご紹介したことがあります。
この小国のことを「都市国家」とか「ポリス」といいます。
それぞれが独立しています。
王はいません。
アテネという都市国家がありました。
ライバルのスパルタを凌駕する強国です。
アテネは、いまから二千数百年前に、世界で最初の直接民主政治をおこなったことでも有名です。
ここでは市民が直接、政治に対して意見をいえます。
当時としては驚嘆すべき制度です。

隣のローマでは、B.C.509年に王を追放して、共和国となりました。
政治については当初、貴族だけしか参加できませんでした。
財産のない市民、つまり無産市民には、関与する機会があたえられませんでした。
のちになって、無産市民にも参政権があたえられます。
これでアテネと同じになったような感がします。
そうではありません。
ローマの政治形態は、間接民主政治です。
自分が国会議員にならないかぎりは、国会で意見を表明したり、採決に参加することができません。
この点がアテネとは違うところです。

アテネの民主政は、ペリクレスという指導者の時代(B.C.443年~B.C.429年)に完成しました。
ローマは別として、ギリシア以外の国は、民主政治とは対極の王政です。
アテネのひとたちは、それらの国をほくそ笑んでいるような感があります。
残念ながらそうともいいきれません。
陰の部分もあります。
参政権をあたえられていたのは、18歳以上の男性のみです。
女性は除外されていました。
政治に参加する権利がありませんでした。
ちなみにギリシアの女性に参政権があたえられたのは1952年のことです。
他国も似たような状況です。
第二次世界大戦後に付与されました。

古代のアテネでは、女性をどのような目でみていたのでしょうか。
端的にいいますと女は、子供を産むための道具です。
男からは、対等な人格を持った存在と思われていませんでした。
女性に対して愛が生まれるということはありませんでした。
もちろん男性は、女性をかわいがります。
それはペットの犬や猫を愛でるのと同じような感情です。

柳澤伯夫(1935年生)という自民党の元衆議員がいます。
厚生労働大臣のときの発言が衝撃的でした。
2007年にこのようなことをいいました。

女性は子供を産む機械である、と。

平野貞夫(1935年生)という元参議員がいます。
国会議員になる前は、衆議院事務局の職員でした。
高潔なかたです。
ぼくは個人的に尊敬しています。
野党の立場から活躍をしていました。
そのかたがテレビで、柳澤厚労大臣の言辞について批評しました。
柳澤さんの発言は絶対に許すことができないと。
爽やかな弁舌でした。
そのあとにいったことばが印象に残っています。

私たちの年代のものは皆、柳沢さんと同じような考えをもっている。
私も国会議員時代、このようなことばが不用意にでないよう細心の注意を払っていた、と、

ぼくはこのとき、寂寞(せきばく)とした情につつまれました。

もちろん現在では、このようなことを考えるひとたちは少数です。
年配者は別として、かつてのアテネのような女性観をもっているひとはいません。
ぼくはそう思っていました。
ところがそうとはいいきれないような気もしてきました。

ドイツ観念論の創始者であるカント(1724年~1804年)は次のようにいっています。

自分には道徳を。そして他人には幸福を

「自分には道徳を」
ぼくは別にここまで堅苦しく考える必要はないと思います。
ただ、
「他人には幸福を」
ということばには共感がもてます。

(「泣ける2ちゃんねる」より引用)

事情があって生活保護を受けている母子家庭の知人の子供が夏休みに法事で東京へ来た。
「おじさんがディズニーランドへ連れてってあげるよ」と言うと、
頑なに固辞するので、
子供のくせに遠慮するなあと思って理由を訊いたら、
「だって高いから」とだけ言うと、
その子は下を向いてしまった。

「じゃあおじさんと、明日どこかドライブへ行こう」と次の早朝連れ出した。

首都高から湾岸線、浦安で降りるとTDLの看板があり、その子はまだきょとんとしていたが、駐車場へ入るあの角を曲がったときのその子の驚きと感動の歓声が忘れられない

持ちきれないくらいのおみやげを買ってやり、5万くらい使ったが、馬にぶち込むよりはいい使い方だと思った。

「泣ける2ちゃんねる」から引用させていただきました。
この本はこれまでに多くのシリーズが刊行されています。
ぼくは7冊ほどもっています。

この文中の「おじさん」は、おそらく競馬好きなのでしょう。

「持ちきれないくらいのおみやげを買ってやり、5万くらい使ったが、馬にぶち込むよりはいい使い方だと思った」

ぼくはこれを読んだとき、カントのことばが頭に浮かびました。
「自分には道徳を。そして他人には幸福を」

女性を道具視するひとたちは、自分のことしか考えていません。
このかたがたには、相手の幸せを考えるという人間としての感情がないのでしょうか。
ぼくには理解できないです。

話は変わりますけれども、本日の香西咲さんのツイートはとてもかわいらしいです。
ほほえんでしまいました。
風邪の具合はいかがなのでしょうか。
恢復に向かっていることを願っております。
よい休養の機会だと思って、焦らずに治していただきたいです。




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ナポレオンにみる引き際の鮮やかさ

香西咲さんを勝手に応援するサイトの管理人の「焼酎好き」です。よろしくお願いします。

本日は引き際について書いてみたいと思います。
太平洋戦争(1941年12月8日~1945年8月15日)で、多数の日本人が亡くなりました。
犠牲者は300万人にのぼります。
1945年7月26日、連合国(アメリカ、イギリス、中国)は日本に対して、降伏を求めてきました。
ポツダム宣言です。
日本は拒否します。
ここでやめることなどできません。
徹底抗戦しかありません。
内情は、もう戦うための武器がありませんでした。
食料も燃料もありません。
連日、アメリカの飛行機が、上空から焼夷弾(しょういだん)を落としていきます。
沖縄では住民の三分の一のかたが自分で自らの命を絶ちました。
それでも日本は戦争の継続を選択しました。

同年の8月6日、アメリカは、長崎に原爆を投下します。
3日後には、広島にも落とします。
あわせて数十万人の日本人が犠牲となりました。
7月26日にポツダム宣言を受諾していれば、このかたたちの命が失われることはありませんでした。

ナポレオンの場合はどうだったのでしょうか。
ロシア遠征をふりかえってみたいと思います。
1812年5月、ナポレオンは、ロシアへ向けて軍を率います。
ナポレオンの兵力は60万人です。
6月に国境を越えました。
なぜかロシア軍は戦おうとしません。
逃げるいっぽうです。
8月になりました。
ナポレオン軍は15万5千人に激減します。
大半のものが飢えと疲労で死亡しました。
途中で逃走したものもいます。
ロシア軍は退却しながら、畑の作物や食料を保管してある倉庫をすべて焼き払っていきます。
このためナポレオン軍は、現地で食糧を調達することができませんでした。
それでも9月に、首都のモスクワを占領します。
ナポレオンは地方へ逃れているロシア皇帝に手紙を書きました。
すみやかに降伏しなさい、と。
返事はありませんでした。
1か月が経ちました。
10月13日、モスクワに、初雪がおりました。
想定外の出来事でした。
まさかこんなにも早く冬がやってくるとは。
フランス軍は冬の装備をもちあわせていませんでした。
このときナポレオンは、即座に、命令をくだしました。

全軍、退却せよ、と。

鮮やかな決断です。
これがもしも日本だったらどうでしょうか。
このような判断をすることができたでしょうか。
ナポレオンは強気な性格の持ち主です。
首都を占拠しつづけるということが脳裏をよぎったかもしれません。
それを選択することはありませんでした。
この引き際は見事です。

引き際といいますと、現在、これからかけ離れたひとたちがいます。
ストーカーです。
日本にはこの種の情けない男たちが少なからず存在しています。
規制する法律もあります。
法治国家ということばがあります。
法律が整備されているのですから、近代的な国家なのかもしれません。
老子は次のようにいっています。
法律があるということは少しも良い状態ではない。
悪いことをするひとがいるからわざわざ法律をつくって取り締まらなければならないのである、と。
ストーカー規制法は、平成12年につくられました。
老子の観点からいいますと、情けない限りです。
ストーカーといいますと、しつこくつきまとったり、待ち伏せをするひと、との印象があります。
法律によりますと、以下の行為もストーカーとみなされる場合があります。

 ・拒否されているにもかかわらず、面会、復縁、贈り物の受け取りなどを要求すること。
 ・いちじるしく粗野又は乱暴な言動をすること。
 ・拒否されているにもかかわらず、電子メールを送信すること。
 ・中傷や、名誉を傷つけるような内容を告げること。

男は引き際が肝心です。
いつまでも過去にしがみついていてはいけません。
美しく生きたいものです。

先ほど、香西咲さんのツイッターを拝見しました。
風邪の具合はいかがなのでしょうか。
心配です。
疲れがたまっているのかもしれません。
風邪は安静にしているのが一番だと思います。
薬を飲まれているようですので、とりあえずは安心しました。
ゆっくりお休みください。
たくさん眠ってください。



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