西田幾多郎の純粋経験と香西咲さんの魅力

香西咲さんを勝手に応援するサイトの管理人の「焼酎好き」です。よろしくお願いします。

本日は別の話題を書こうと思っていたのですが、香西咲さんのこちらの写真の魅力に依然として囚われておりまして、自分を解き放つことができません。
実は2枚の写真をツイッターで拝見して以来、思っていることがあります。
このような美しい表情やファッショナブルな装いをした香西咲さんの写真集が発売されないものだろうか、と。
ぼくは以前から、香西咲さんのおしゃれな写真が大好きです。
センスの良い服と相俟って、香西咲さんの魅力が倍加されています。
もしも写真集が発売されるのでしたら、大判の豪華な装丁のものがいいのです。
デジタルのものでもかまいません。
男性だけでなく、美に関心のある女性も購入すると思うのですが。
kouzaisaki② kouzaisaki①
昨日も書きましたけれども、こちらの香西咲さんの写真をみると、ぼくは茫となります。
「茫」、つまりは、「ぼうっ」となります。
昨日のブログでは冷静に、香西咲さんの存在はモナ=リザとプラトンのイデア論を凌駕(りょうが)した、と書きました。
ただ、これは、しばらくしてから思ったことであります。
ぼくは他の芸能人には興味がないので、世間一般で美しいといわれているかたをみても茫とはなりません。
ほとんど何も感じません。
この前ふと、自分の記憶から消えていたあるかたのことばが眼前にあらわれました。
それは哲学者の西田幾多郎が著書の「善の研究」のなかで述べている「純粋経験」という概念です。
難解な文章ですので、少し平易なことばに直して紹介します。

経験するというのは、事実そのままに知る、という意味である。
まったく自己の細工を捨てて、事実にしたがって知るのである。
普通に経験といっているものも、実際は何らかの思考を交えている。
少しも思慮分別を加えない、真に経験そのままの状態を純粋経験というのである。
たとえば、色を見、音を聞く瞬間、まだこれが外にある物の作用であるとか、自分がこれを感じているとかいうような考えのないだけでなく、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。
それで純粋経験は、直接経験と同じである。
自分の意識状態をじかに経験した時、まだ経験している主観もなく、まだ経験されていない客体もない、いわば知識とその対象とがまったく合一している。
これが経験の最も純粋なものである。

これでもまだ難しいので、簡単に説明してみたいと思います。

主観客体ということばが出てきました。
主観とは、香西咲さんの写真をみているぼくのことです。
客体は、ぼくの前にある香西咲さんの写真のことです。
たとえば、ぼくが香西咲さんの写真をみるという体験をしたとします。
このときぼくは、「香西咲さん」と、「美しい」ということを別々に認識して、それを積み重ねて「香西咲さんは美しい」と判断しました。
ところがよく考えてみますと、ぼくはこのような判断をする前に、まずは、「美しい女性」という全体的な体験をしています。
つまり、部分から全体にいくのではなく、まずは全体を認識します。
この段階では、主観客体の分離はありません。
この段階を純粋経験といいます。

西田幾多郎は、純粋経験とは、
「美しいものに心を奪われ、物もなく我もなく、恍惚としたこの瞬間」
であると述べています。

純粋経験をぼく流にいいますと、
「茫となる」
ということです。

ぼくは多くのひとたちに純粋経験をしてもらい、新しい自分を発見してもらいたいと思います。

そのためにも香西咲さんのおしゃれな写真集が発売されればよいのですが。



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